戦の図鑑

超わかりやすく戦を図解で解説していきます!

【まとめ】小田原征伐とは?豊臣VS北条の一大決戦をわかりやすく図解解説!

小田原征伐

 今回は「小田原征伐」について解説していきます。

この戦いは豊臣秀吉北条氏政が戦いました。

秀吉はこの戦いで天下統一を達成し、氏政は切腹することになります。

小田原征伐はこんな戦い!

初めに小田原征伐とはどんなものか、表で見ていきましょう。

小田原征伐
期間 1590年2月~7月
戦場 小田原城(神奈川県小田原市)など
交戦勢力 豊臣家 北条家
主な武将 豊臣秀吉 北条氏政
戦争理由 北条家が豊臣家の指示に従わないため
兵力 200000 82000?
形式 籠城戦
結果 氏政などが切腹し小田原城は開城

小田原征伐まで

次に小田原征伐が起こるまでを見ていきましょう。

名胡桃城を騙して盗る

豊臣秀吉はこの頃、日本のほぼ全てを手中に収めており、徳川家康や島津義久などの実力者も支配下に置いていました。

そんな秀吉ですが、まだ支配下に置けていない勢力がありました。

それが北条家でした。

できるだけ戦わずに北条家を従わせたいと考えた秀吉は、

沼田の領地の3分の2をあげるから上洛してくれ

と北条家に頼みました。

しかし沼田の全てを貰えないことに氏政は不満を持ち、家臣の猪俣邦憲に残りの3分の1にある名胡桃城を奪わせます。

名胡桃城を奪う猪俣邦憲

名胡桃城を奪う猪俣邦憲

しかも一門の北条氏邦が勝手に下野国を攻めていたので、秀吉はさすがに怒り、小田原征伐が起こることになったのです。

下野国を攻める北条氏邦

下野国を攻める北条氏邦

小田原征伐

 こうして秀吉による小田原征伐が始まるのですが、この後

  • 豊臣秀吉や徳川家康を中心とする本軍
  • 前田利家や上杉景勝を中心とする北方軍

に分けて侵攻をしていくことになります。

※片方ずつ解説していくので時系列に前後が出ますがご了承ください。

豊臣本軍の動向

秀吉を大将とした本軍は、

  • 家康や豊臣秀次の軍→山中城
  • 織田信雄の軍→韮山城
  • 豊臣秀長の水軍→下田城

とさらに3手に分けて城攻めをしていきました。

山中城に攻める徳川家康と豊臣秀次、韮山城を攻める織田信雄、下田城を攻める豊臣秀長

山中城に攻める徳川家康と豊臣秀次、韮山城を攻める織田信雄、下田城を攻める豊臣秀長
山中城での戦い~徳川家康VS北条氏勝

山中城は北条家の領土を繋ぐ重要拠点なので、豊臣軍の襲来に備えて工事をしていたのですが、完成する前に豊臣軍が侵攻してくることになりました。

山中城に着いた家康は攻撃を開始しましたが、間宮康俊の奮戦により味方の一柳直末が戦死します。

山中城に攻撃する徳川家康、豊臣秀次

山中城に攻撃する徳川家康、豊臣秀次

しかしこの康俊の奮戦は戦局を覆すまではいかず、結局はわずか1日で落城することになりました。

城主の松田康長は落城を悟ると、援軍として来ていた北条氏勝を逃がし、康俊などの家臣と共に戦死しました。

 城から脱出した氏勝は、初めは自害しようとしますが、家臣に説得されて居城の玉縄城まで逃げ豊臣軍に備えることになります。

玉縄城に逃げる北条氏勝

玉縄城に逃げる北条氏勝

またこの戦いで籠城軍は半分の2000人が戦死しますが、豊臣軍も秀次が

被害は気にせず早く城を落とそう

と考え力攻めをしたので、1000人の犠牲が出ることになりました。

その後の家康軍

こうして山中城を落とした家康軍は、別働隊に

  • 鷹之巣城
  • 足柄城

などを落とさせ、小田原城の包囲を始めることになります。

韮山城での戦い~織田信雄VS北条氏規

一方、織田信雄を大将とする50000の軍は韮山城を包囲します。

韮山城を攻める織田信雄

韮山城を攻める織田信雄

しかし氏政の弟である氏規の守る韮山城は固く、なかなか陥落しそうになかったため秀吉は

包囲に必要な最低限の兵だけ残して、あとは小田原城を包囲してこい

と命じたため、信雄は小田原城の包囲に向かいました。

最低限の兵を残して小田原城に向かう織田信雄

最低限の兵を残して小田原城に向かう織田信雄

ちなみに氏規はこの後100日ほど持ちこたえ、家康の説得により開城、降伏しています。

下田城での戦い~豊臣秀長VS清水康英

そして豊臣秀長率いる水軍は、下田城を海から攻めることになりました。

下田城を海から攻める豊臣秀長

下田城を海から攻める豊臣秀長

水軍の一部は上陸し、城主の清水康英と戦いを繰り広げていたのですが、途中で

小田原城を海側から封鎖してこい

との命令が下ったので長宗我部元親のみを残し、他は小田原城を包囲しに行くことになります。

長宗我部元親を残して小田原城に向かう豊臣秀長

長宗我部元親を残して小田原城に向かう豊臣秀長

残された元親は、海上から大砲を撃つなどして、相手の戦意を削ぐことに成功します。

そして戦闘開始から20日ほどたった頃、康英は勧告に応じて開城することになりました。

北方軍の動向

一方北関東では、前田利家や上杉景勝を中心とした軍が、北方の上野国から侵攻を始めていました。

上野国から侵攻を始める前田利家と上杉景勝

上野国から侵攻を始める前田利家と上杉景勝

この侵攻によって北条方の城多数が落とされたのですが、ここではその中で5つの戦いをピックアップして解説します。

松井田城での戦い~前田利家VS大道寺政繁

北から進出してきた前田利家は、初めに松井田城を包囲します。

そして利家は松井田城に猛攻撃を仕掛けるのですが、城を守る大道寺政繁の強い抵抗により、城の攻略が進みませんでした。

大道寺政繁の抵抗によりなかなか落ちない松井田城

大道寺政繁の抵抗によりなかなか落ちない松井田城

しかもこの間に、山中城が1日で落ちたことを知った利家はさらに焦り、兵糧を焼くなどしてさらに攻撃の手を強めます。

そしてその甲斐もあって、政繁が降伏し松井田城は開城の時を迎えました。

しかし、開城したのは攻撃から約1ヶ月してからのことでした。

 

鉢形城での戦い~前田利家VS北条氏邦

松井田城が陥落してから、いくつもの城を落として勢いに乗った利家は、次に鉢形城を攻めます。

鉢形城を守るのは北条氏邦

鉢形城を守る北条氏邦

鉢形城を守る北条氏邦

軍事面でなかなか優秀だった氏邦は、初め

野外決戦をしてで秀吉と決着をつけよう

という意見を持っていましたが、氏政に受け入れられなかったので、仕方なく居城の鉢形城に籠っている人物でした。

そこに前田利家などが攻めてきたのですが、さすがは氏邦。

兵力差が10倍以上開いているにも関わず、持ちこたえます。

しかし本多忠勝が山の上から大砲を撃ってきたので、ついに鉢形城は開城することになりました。

ちなみに、降伏した氏邦を一時は殺されそうになったのですが、攻撃した前田利家が

氏照は見事な戦いをしていたので命だけは助けて欲しい

助命を嘆願したので、命は助けられました。

八王子城での戦い~前田利家VS横地監物

次に八王子城を包囲した利家は、早速攻撃を開始します。

この城ももともとは氏政の弟、北条氏照が城主でした。

しかし氏照は他の城主と同様に小田原城にいたので、この時は代わりに家臣の横地監物が城を守ることになりました。

八王子城を攻める豊臣軍

八王子城を攻める豊臣軍

さて、八王子城では監物が奮戦を見せ激戦となりますが、さきほど降伏していた政繁などが、豊臣軍に城の構造を教えていったので城は1日で陥落してしまいます。

そして八王子城が落城寸前となると、氏照の正室などの女子は一斉に自害または滝に身を投げ、滝は血に染ったと言われています。

監物は城を脱出しますが、逃げる途中で切腹しています。

八王子城の戦いについてはこちらでさらに詳しく解説しています。

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別働隊の動向

一方小田原城を包囲していた本軍ですが、ここで秀吉が南の北条方の城を落としていないことに気づきます。

そして秀吉は、小田原城を包囲する一部の軍(徳川家康や浅野長政)を二手に分け、後に合流しながら侵攻させることになりました。

小田原城以南に侵攻を始める徳川家康と浅野長政

小田原城以南に侵攻を始める徳川家康と浅野長政
玉縄城での戦い~本多忠勝VS北条氏勝

先に山中城から逃げていた氏勝は、この玉縄城に籠っていました。

玉縄城に籠る北条氏勝

玉縄城に籠る北条氏勝

そこに本多忠勝の徳川軍が攻めてきたのですが、一旦は切腹しようと思っていたくらいなので、戦意はあまりありませんでした。

そのため徳川軍から降伏の勧告が来ると、これを受け入れ開城することになります。

降伏した氏勝は、その後政繁と同じように豊臣側につき、戦いを終わらせるため奔走することになります。

岩槻城での戦い~浅野長政VS伊達房実

この城も、もともとは一門の北条氏房が城主だったのですが、小田原城に行ったため家老の伊達房実が守ることになりました。

房実も激戦を繰り広げ、奮戦したのですが、20000人の大軍の前に降伏を余儀なくされます。

浅野長政を激戦を繰り広げる伊達房実

浅野長政を激戦を繰り広げる伊達房実

この戦いで北条軍の死者が1000人と半数だったことからも、戦の壮絶さがわかると思います。

忍城での戦い~石田三成VS成田長親

このように犠牲を負いながらも、次々と城を落としていった豊臣軍は、いよいよ最後の忍城にまで到達します。

この忍城も成田家の当主、成田氏長とその弟が小田原城に出陣しており、留守だった叔父の成田泰季もタイミング悪く病死したため、きゅうきょ泰季の息子成田長親が城を守ることになりました。

ですが忍城は川に囲まれており、堅城して知られている城。

そう簡単には忍城を落とすことができません。

忍城攻めに手こずる石田三成

忍城攻めに手こずる石田三成

そうした時に、秀吉から

水攻めで城を沈ませろ

と命令が届きます。

命令された石田三成は水攻めを実行しましたが、忍城は思ったように沈みませんでした。

忍城を水攻めする石田三成

忍城を水攻めする石田三成

こうして城が全然落ちそうになかったので、北方軍やもう1つの別働隊が応援に来ましたが、それでも城は落ちません。

忍城攻めの援軍に駆けつける浅野長政と上杉景勝と前田利家

忍城攻めの援軍に駆けつける浅野長政と上杉景勝と前田利家

そして結局この城は、小田原城よりも長い間持ちこたえていくことになります。

忍城の戦いについてはこちらでさらに詳しく解説しています。

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小田原参陣

始めに豊臣家に従わない勢力が北条家だ、ということを言ったのですが、実は東北にも従わない勢力がいました。

それが伊達家です。

伊達政宗

伊達政宗/出典Wikipedia

伊達政宗は

  • 人取橋の戦い
  • 大崎合戦
  • 郡山合戦
  • 摺上原の戦い

で領土を広げた後、北条家と同盟を組んでいたため秀吉にとっては無視できない存在でした。

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その政宗には前々から

小田原城に参陣して自分に従うと誓いなさい

と言っていたのですが、政宗は遅れてやってくることになりました。

しかも政宗は、秀吉による惣無事令という勝手に戦をしていけない命令に反していたので、一部の領地を没収されてしまいます。

この件は氏政にとっては

政宗とは同盟を組んでいたのに裏切られた

という気持ちだったかもしれません。

石垣山一夜城

また小田原城を包囲していた秀吉が、小田原城の隣にわずか一日で石垣山城という城を作ったので、小田原城にいた兵の士気はさらに下がってしまいます。

石垣山一夜城を造りあげる豊臣秀吉

石垣山一夜城を造りあげる豊臣秀吉

もちろん、石垣山城は一日で作ったわけではなく、作っている間は木などで隠し、完成したら木を切り倒すと、小田原城からは一日で出来たように見えるというからくりでした。

しかも秀吉は茶会を開いたり、妻女を呼び寄せ温泉を楽しんだりして、余裕を見せつけていたので、小田原城は抵抗する気を無くしてしまいました。

ちなみに「小田原評定」という言葉は、この時降伏するかどうかの議論で、なかなか結論が出なかったことからこの言葉ができたのだそう。

小田原城開城

それはともかく、抵抗する気を無くした北条軍に次々と落城の報せが届き、さらに兵の士気は下がっていきます。

兵士がそんな様子なので、ついに北条氏直は

俺が切腹するから城兵の命は助けてやってください

と申し出ることになります。

結局氏直は切腹せずに済んだのですが、代わりに氏政や氏照、政繁などの切腹を条件に小田原征伐が終わることになりました。

その後

この戦いによって秀吉は、念願の天下統一を達成(後に反乱は起きますが)します。

命を助けられた氏直は、高野山に追放されます。

後に秀吉によって1万石を与えられ大名復帰を許されますが、その3ヶ月後に病死してしまいます。

氏直には子がいなかったため、これによって北条家の嫡流は断絶してしまいます。

また忍城は、小田原城が開城してもなお籠城を続けていましたが、北条家が降伏したことを知らせ降伏を呼びかけると開城し、これによって小田原征伐は完全に終了しました。

まとめ

  • 秀吉の命に従わず城を奪ったため小田原征伐が起こった
  • 豊臣軍の大軍に押され北条家は降伏した
  • 北条家嫡流は断絶、忍城は小田原城よりも耐えた

最後まで読んでいただきありがとうございました。

八王子城の戦いとは?小田原征伐1番の激戦をわかりやすく図解解説!

八王子城の戦い

 今回は「八王子城の戦い」について解説していきます。

この八王子城の戦いは上杉景勝前田利家真田昌幸と、横地監物が戦いました。

この八王子城の戦いは、小田原征伐で最も激しい戦いといわれ、両軍ともに大きな被害を受けることになりました。

 八王子城はこんな戦い!

八王子城の戦いを表でまとめました。

八王子城の戦い
期間 1590年6月23日
戦場 八王子城(東京都八王子市)
交戦勢力 豊臣家 北条家
主な武将 上杉景勝、前田利家、真田昌幸 横井監物
戦争理由 豊臣家の命令に従わないため
兵力 15000 3000
形式 籠城戦
結果 八王子城は落城し監物は切腹

八王子城の戦いまで

まずは八王子城が始まるまでを見ていきましょう。

小田原征伐

1590年、豊臣秀吉が天下統一をするため、自分に従わない北条家に侵攻を始めます。

小田原城に向かう豊臣秀吉

小田原城に向かう豊臣秀吉

秀吉自身は本城の小田原城に進軍したのですが、他の北条方の城には自分の家臣に向かわせました。

そして今回の戦場となる八王子城には、上杉景勝ら15000人の軍が攻めてきたのです。

八王子城を攻める豊臣軍

八王子城を攻める豊臣軍

八王子城の戦い

ここから八王子城の戦いについて解説していきます。

旧北条家臣を先鋒に

そして豊臣軍は八王子城に着くと攻撃を開始するのですが、その先鋒はなんと北条方の武将である大道寺政繁でした。

政繁は初め北条方として松井田城で豊臣軍と戦っていたのですが、その松井田城が落ち、降伏した政繁は豊臣軍に編入されてしまったのです。

死闘を繰り広げる

そして北条方の城の構造を知っている政繁は、豊臣軍に城の構造を教えて有利になるよう働きかけました。

そのおかげか、豊臣軍は籠城兵を奥に追いやることに成功するのですが、豊臣軍も1000人以上が戦死するなど激戦となります。

そのため豊臣軍は一旦攻撃を止めますが、ここでまた豊臣側にチャンスが訪れました。

上杉景勝の家臣に、城についてよく知る者が現われたのです。

その者のおかげで豊臣軍は城の抜け道に奇襲をかけ、八王子城は落城まで追い込まれることになります。

落城、壮絶な戦死

この奇襲で、八王子城はついに落城の時を迎えます。

城に籠る婦女子は落城を悟ると、次々と滝に身を投げるなどして自害しました。

その滝は三日三晩血で染まったというのですから、凄まじい現場だったのでしょう。

そして城主の横井監物も、脱出には成功しますがその後切腹してしまいます。

こうして八王子城の戦いは、豊臣軍の勝利で終わったのでした。

その後

この八王子城の陥落をきっかけとして、小田原城に籠る城兵の士気が下がり、その後1ヶ月もしないうちに小田原城は開城します。

そして八王子城の城主で、小田原城にいた北条氏照は、開戦の責があるとして切腹することになりました。

まとめ

  • 小田原征伐が始まったことにより八王子城の戦いが起こった
  • 豊臣軍の猛攻によって八王子城は陥落した
  • 城を守った横井監物は切腹することになった

最後まで読んでいただきありがとうございました。

忍城の戦いとは?小田原征伐で最後まで守った城をわかりやすく図解解説!

忍城の戦い

 今回は「忍城の戦い」について解説していきます。

成田長親は苦戦を強いられますが忍城を守りきり、忍城は本城の小田原城が開城するまで守りきった唯一の城となりました。

忍城の戦いってどんな戦い?

初めに忍城の戦いとはどんなものなのか、表でまとめました。

忍城の戦い
期間 1590年6月16日~7月16日
戦場 忍城(埼玉県行田市)
交戦勢力 豊臣家 成田家
主な武将 石田三成 成田長親
戦争理由 豊臣秀吉の命令に従わないため
兵力 20000~50000 2000~3000
形式 籠城戦
結果 小田原城が落城したため開城して降伏

忍城の戦いまで

まずは忍城の戦いが始まるまでを知っておきましょう。

小田原征伐

当時、豊臣秀吉が日本のほぼ全てを支配していました。

そして秀吉は日本を統一するため、最後に反抗した勢力北条家を倒すことに決めます。

こうして秀吉は150000程の軍を率いて北条家の本城小田原城に向かったのですが、小田原城だけを攻めるわけではなく、支城にも軍を向かわせました。

小田原城に向かう豊臣秀吉

小田原城に向かう豊臣秀吉

そして忍城には、石田三成が攻めに来たのです。

石田三成

石田三成/出典Wikipedia

忍城の戦い

ここから忍城の戦いを解説していきます。

沼と川に囲まれた堅城

戦いの前に、忍城について軽く説明しておきましょう。

忍城は荒川と利根川の間にある城で、忍城の辺りは沼地となっていました。

川に挟まれている忍城

川に挟まれている忍城

なので攻める側は、川を渡って沼地を歩かなくては行けません。

そうなると身動きが取りづらいので、自然を生かした堅城として知られていました。

さて、その忍城に石田三成は攻めることになった訳ですが、城兵の奮戦も相まって忍城は全く落ちる気配を見せませんでした。

落ちる気配を見せない忍城

落ちる気配を見せない忍城

水攻めでピンチに

忍城攻めがこんな調子なので、小田原城を包囲している秀吉からある命令が届きます。

それは

水攻めをしろ

というものでした。

さきほど説明したように、忍城は川に挟まれているので水を集めやすく、水攻めをするには持ってこいの状況だったのです。

忍城の水攻めに取り掛かった三成は、周辺の農民に金を与え、なんとわずか4、5日で石田堤と呼ばれる堤防を作り上げました。

そして堤防に川から水を引き入れ、水攻めが始まったのですが、思ったより城が沈まず残ってしまいます。

忍城を水攻めする石田三成

忍城を水攻めする石田三成

この時の忍城は、まるで水に浮いたように見えたため浮き城と後に呼ばれたりもしています。

沈没を阻止

しかしこんな時に、たまたま大雨が降りました。

雨水が溜まると本丸まで沈む恐れがあるので、忍城側としては大ピンチとなってしまいます。

このピンチをを知った城主の長親は

このままじゃマズいから堤防を壊そう

と考え、工作兵を送りました。

密かに城を出た工作兵は、泳いで堤防までたどり着き、見事堤防に穴を開けることに成功します。

石田堤を決壊させる成田長親の工作兵

石田堤を決壊させる成田長親の工作兵

そして穴が空いた堤防に水がどんどん流れ出し、豊臣軍は300人が溺れ死ぬほどの被害を出しました。

こうして三成による水攻めは失敗に終わったのです。

次々と援軍が参戦

あまりにも忍城が落ちそうになかったので、浅野長政や上杉景勝、前田利家が援軍に駆けつけます。

忍城攻めの援軍に駆けつける浅野長政と上杉景勝と前田利家

忍城攻めの援軍に駆けつける浅野長政と上杉景勝と前田利家

そして加わった軍を含めた総攻撃を仕掛けますが、それでも忍城は陥落せず、持ちこたえ続けていました。

先に小田原城が陥落

そうこうしているあいだに、なんと主君の北条家の本城である小田原城が先に落ちてしまいます。

これは北条方の敗北が決まったということなんですが、そうなっては長親がこれ以上籠城しても意味がありません。

長親の主君、成田氏長の勧めに応じて、ついに忍城は開城し忍城の戦いはこうして終わりを迎えました。

ちなみに忍城が開城した時には、北条方の城は全て開城しており、忍城は北条方が最後に抵抗した城となっています。

その後

忍城が開城したことによって、秀吉に反抗する勢力が無くなり、秀吉は念願の天下統一を達成しました。

三成は、結局最後まで自力で忍城を落とすことができなかったので、戦下手という評判が広まることになります。

長親は領地を没収され、その後は各地を点々とし尾張国で最後を迎えました。

まとめ

  • 小田原征伐が攻められた流れで忍城の戦いが始まった
  • 水攻めをするも堤防を壊され失敗に終わる
  • 小田原城が開城したことで降伏し終戦

最後まで読んでいただきありがとうございました。

石垣原の戦いとは?黒田官兵衛の野望をわかりやすく図解解説!

 今回は、「石垣原の戦い」について解説していきたいと思います。

この石垣原の戦いは、黒田官兵衛大友義統が戦いました。

この石垣原の戦いによって官兵衛は、天下統一への足がかりをつかみますが、それから領土を拡大することは叶いませんでした。

この記事でわかること
  • 石垣原の戦いが始まるまで
  • 石垣原の戦いの経過
  • 石垣原の戦いのその後

当時の情勢

この当時、全国で大きく二つの勢力に別れていました。

それは、徳川家康をリーダーとする東軍と、

石田三成を(実質)リーダーとする西軍でした。

全国のあらゆる勢力は、東軍と西軍どちらにつくのか分かれることになったのですが、どちらにもつかないものもいました。

 その一人が名軍師、黒田官兵衛

黒田官兵衛

黒田官兵衛/出典Wikipedia

諸説ありますが、官兵衛は九州を統一してから、関ヶ原の戦いで勝った勢力と勝負をつけようと考えたのです。

石垣原の戦いまで

残った人々をかき集める

九州を平定しようと考えた官兵衛は、まず兵を集めようとします。

しかし、自領にはほとんど兵がいませんでした。

それは息子の黒田長政が東軍についており、黒田家の兵をほとんど引き連れていったから。

それを知った官兵衛は、蓄えておいた金を惜しみなく使い、留守にしていた兵や浪人や商人、百姓をかき集めて何とか9000人の軍を作ることに成功します。

官兵衛は、そうした兵を率いて豊後国に侵攻を始めたのです。

大友家の復興運動

一方で、この機に乗じてお家を復興しようと考えた者がいました。

それが大友宗麟の子、大友義統です。

義統はもともと豊後国を支配していたのですが、朝鮮との戦いで失敗してしまい家を取り潰されていました。

こうした経歴を持つ義統が、九州に残った旧家臣を呼び集め、その兵力で豊後国へ侵攻を始めたのです。

義統は豊後国に着くと、来たるべき黒田軍に備えて立石という場所に布陣をしました。

立石に布陣する大友義統

立石に布陣する大友義統

杵築城攻防戦

さて、その呼び集められた旧家臣のうちの一人吉弘統幸は、100人ほどの兵を引き連れて杵築城を攻めました。

杵築城を攻める吉弘統幸

杵築城を攻める吉弘統幸

杵築城を守るのは細川忠興(東軍)の家臣、松井康之。(忠興と官兵衛は味方)

康之は統幸が攻めてきたことを知ると、伏兵を潜ませます。

そして杵築城を攻める義統に奇襲をかけ、大友軍は義統の元へ撤退していきました。

松井康之の奇襲を受け撤退する吉弘統幸

松井康之の奇襲を受け撤退する吉弘統幸

こうして石垣原の戦い前哨戦は、大友軍の負けに終わったのです。

官兵衛、石垣原に到着

その一方、官兵衛は義統が布陣したことを知ると母里太兵衛井上之房に先に進軍を開始させます。

そして、杵築城を守りきった康之の軍勢と合流し、安岐城から打って出た熊谷直盛を蹴散らします。

松井康之と合流し熊谷直盛と合流する母里太兵衛と井上之房

松井康之と合流し熊谷直盛と合流する母里太兵衛と井上之房

その後、康之は実相寺山に、黒田軍(官兵衛は不在)は麓に布陣し、両軍が布陣を完了させました。

布陣を完了させる両軍

布陣を完了させる両軍

石垣原の戦い

まさかの釣り野伏

そして黒田軍の先鋒である太兵衛と康之が大友軍先鋒となった統幸に激突し、石垣原の戦いが始まりました。

石垣原の戦い開戦

石垣原の戦い開戦

しばらくすると、劣勢になったとでも言うように統幸が本陣まで退いていきます。(写真)

太兵衛と康之はもちろん統幸を追撃したのですが、そこには宗像鎮統伏兵として潜んでいました。

鎮統は追撃してきた太兵衛と康之を見るなり、奇襲を仕掛けます!

そして統幸も同時に進行方向を反転させ、太兵衛と康之に向けて反撃を開始しました。

反撃を開始する吉弘統幸と宗像鎮統

反撃を開始する吉弘統幸と宗像鎮統

これに先鋒部隊は耐えられず、多くの被害を出して敗走していきます。

敗走していく母里太兵衛と松井康之

敗走していく母里太兵衛と松井康之

実はこれは島津家特有の戦法「釣り野伏」でした。

大友家は、過去に島津家にこの釣り野伏で苦しめられたので、この戦法の強さを十二分に知っていたのです。

大友軍は、さらに相手の被害を大きくさせようと先鋒部隊を追いましたが、これが勝敗を分けることになりました。

深追いしすぎて形勢逆転

大友軍は敗走していく黒田軍を追い、その勢いで康之や後方の之房にまで攻撃します。

深追いする大友軍

深追いする大友軍

しかし、大友軍2000に対して黒田軍は約10000

この兵力差の壁を乗り越える程の力は大友軍にはありませんでした。

大友軍は奮戦しますが、統幸や鎮統などの大将格の武将が討たれてしまったことで、大友軍は総崩れ。黒田軍の勝利が確定したのです。

吉弘統幸や宗像鎮統が討たれ総崩れとなる大友軍

吉弘統幸や宗像鎮統が討たれ総崩れとなる大友軍

その後

その後官兵衛が到着し、九州平定に向けて豊後国への侵攻を再開します。

そして、

  • 安岐城
  • 富来城
  • 香春岳城
  • 小倉城

を落とし、ついに豊後国を併合してしまいました。

豊後国

豊後国

この時官兵衛は、攻めた城を守っている兵もどんどん軍に加えていったので、黒田軍は数千人増えたと言われているそう。

しかし、ここで官兵衛の元に残念なニュースが届きます。

関ヶ原の戦いがわずか1日で決着がつき、徳川家康が勝利してしまうのです。

官兵衛は、名目上東軍として九州平定を目指していたので、決着がついても攻め続けていては家康に野心があると疑われるのです。

そして官兵衛に停戦命令が下されると、官兵衛は仕方なく侵攻を止めたのでした。

しかし、関ヶ原の戦いは息子の長政が活躍したので、戦後は領地を増やされることになります。

まとめ

  • 官兵衛は九州平定のために豊後国へ侵攻したと言われる
  • 大友軍は深追いしたため敗北した
  • 官兵衛は連戦連勝するも停戦命令が下り平定を諦める

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豊前国人一揆とは?国人の不満爆発をわかりやすく図解解説!

今回は、「豊前国人一揆」について解説していきたいと思います。

この豊前国人一揆は、城井鎮房黒田長政が戦い引き分けに終わりました。

この豊前国人一揆では、鎮房の奮戦により引き分けとなりますが、その後は城井一族は滅亡寸前にまで追い込まれることになります……

この記事でわかること
  • 豊前国人一揆が起こるまで
  • 豊前国人一揆がどのように行われたのか
  • 豊前国人一揆がどのように終わったのか

当時の情勢

戦国時代の後期、九州地方ほとんどを島津家が支配していました。

しかし、その頃本州をほとんど統一していた豊臣秀吉の怒りを買い、秀吉に一大決戦を挑みますが負けてしまいます。

その後、島津家は元の領地(薩摩国、大隅国、日向国の一部)に戻されてしまいました。

薩摩国、大隅国、日向国の一部に領地が減らされる島津家

薩摩国、大隅国、日向国の一部に領地が減らされる島津家

そして他の領地には、本州から来た秀吉の家臣に割り当てられることになります。

豊前国人一揆まで

黒田親子の入国

この黒田官兵衛、長政親子もその内の一人でした。

豊前国の半分を治めることになった二人は、豊前国の中津に上陸します。(写真)

そして、黒田家による統治が始まろうとしていました。

国人の不満高まる

しかし、長く豊前国を治めていた国人(独立した領主)には、黒田家の下につくことが耐えられませんでした。

それは黒田家が支配するようになったことで、国人が自由に豊前国を支配することが出来なくなったから。

こうした不満が高まっていった国人たちは、次第に一揆を起こすことを考えるようになります。

転封命令を拒絶

それにプラスして、国人の中で最も大きな力を持っていた城井鎮房に伊予国への転封(引っ越し)が命じられました。

しかし、鎮房としては長い間治めていたこの地を離れたくはありません。

鎮房は、この命令を拒否することになります。

それを知った黒田親子は怒り、力を持って城井家を倒すことに決めました。

また、この対決を知った他の国人も次々と鎮房に同調して、反旗を翻すことになります。

豊前国人一揆

黒田長政の出陣

城井家討伐を決めた長政は、鎮房が籠る城井谷城に攻め寄せます。

城井谷城に攻め寄せる黒田長政

城井谷城に攻め寄せる黒田長政

しかし、城井谷城は難攻不落の要塞。容易に落とせる代物ではありませんでした。

岩丸山の戦い

城井谷城に籠城する鎮房は、長政率いる軍が攻め寄せたことを知るとゲリラ戦を展開します。

そして黒田軍を数百人討ち取り、長政も死にかける程の大勝利を収めます。

長政は豊前国にやってきたばかりなので、長い間この地をよく知る鎮房には敵わなかったのでしょう。

官兵衛の策

このまま正面から戦うとマズイと考えた父の官兵衛は、これ以上戦わず兵糧攻めを行う事にしました。

兵糧攻めを行う黒田長政、官兵衛親子

兵糧攻めを行う黒田長政、官兵衛親子

さすがの鎮房も、食べ物がなくなったらどうしようもありません。

また、他の一揆を起こした国人たちは次々と各個撃破され、抵抗するのは城井家のみとなっていたことから、これ以上の抵抗を諦め、鎮房の娘を人質に出して和睦を成立させました。

こうして豊前国人一揆は終わったのですが、その後の城井家には壮絶な物語がありました。

その後

豊前国人一揆は終わっても長政は、「鎮房たちはまた一揆を起こすかもしれない」と思ったか、城井一族を滅ぼすことを決意します。

こうして城井一族は

  • 当主 鎮房……長政に中津城に呼ばれ暗殺
  • 父     長房……城井谷城に攻められ死亡
  • 嫡男 朝房……肥後国人一揆を鎮圧中に官兵衛に暗殺
  • 娘     鶴姫……千本松河原で処刑

となかなか鳥肌が立つような方法で滅亡されてしまいました。

しかし朝房の息子の朝末は生き延び、城井家は後に復興されます。

まとめ

  • 黒田親子の入国、伊予国への転封命令から豊前国人一揆が起こった
  • 一時は黒田軍が劣勢になるも兵糧攻めによって引き分けへ
  • 後に黒田家によって城井家は滅亡寸前まで追い込まれる

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根白坂の戦いとは?豊臣VS島津の頂上決戦をわかりやすく図解解説!

今回は、「根白坂の戦い」について解説していきたいと思います。

この根白坂の戦いは、豊臣秀長島津義久が戦いました。

この根白坂の戦いで島津軍は奇襲を仕掛けるなど果敢に戦いましたが、圧倒的な兵力と人材を持つ豊臣軍には通じず、島津軍は大敗してしまいます。

この記事でわかること
  • 根白坂の戦いが始まるまで
  • 根白坂の戦いがどのように行われたのか
  • 根白坂の戦いのその後

当時の情勢

当時九州では、島津家が九州の大部分を占領していました。

しかし、日本の

  • 東北地方
  • 関東地方
  • 九州地方

以外のほぼ全てを支配していた豊臣秀吉の言うことを聞かず、秀吉を怒らせてしまいます。

そのため、秀吉は本州から集めた十数万の兵を送って島津家の討伐を始めることになりました。

この豊臣と島津の戦いの前哨戦が「戸次川の戦い」です。

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この戦いでは豊臣軍の一将、仙石秀久のミスで島津軍の勝利となりました。

しかしあくまでもこれは前哨戦だったので、島津家の決定的な勝利とまではいきませんでした。

根白坂の戦いまで

豊臣軍主力の到着

こうして戸次川の戦いをしている間に、とうとう豊臣秀吉の弟である豊臣秀長を大将とする8万の軍勢が豊前国に上陸します。

豊前国に上陸する豊臣秀長

豊前国に上陸する豊臣秀長

また島津家に抵抗する龍造寺家や大友家などは、この大軍を見て豊臣家の下につくことを決めました。

一時撤退

この秀長の動きを知った島津家当主の島津義久は、大量の豊臣軍に対して正面から戦うのは勝ち目がないと考えます。

そして、豊後まで侵攻させていた弟の島津義弘島津家久日向まで撤退させます。

日向国まで撤退する島津義弘と島津家久

日向国まで撤退する島津義弘と島津家久

義弘と家久もその命令に従い、城に籠っていた大友軍の追撃を受けながらも撤退を完了させました。

義久は大量の敵に対して、自分の領地に引きずり込んで局地戦で勝とうとしていたのです。

日向への侵攻

秀長率いる豊臣軍も、撤退していった島津軍を追うように日向への侵攻を始めました。

そして松尾城を落とすと、山田有信の守る高城を包囲します。

山田有信の守る高城を包囲する豊臣秀長

山田有信の守る高城を包囲する豊臣秀長

しかし、有信は過去に「耳川の戦い」で高城を守り抜いた名将。

簡単には落とせまいと判断した秀長は、攻撃を加えず兵糧攻めをすることにしました。

また義久らが高城を助けに来ることを想定し、根白坂に砦を設け島津軍に備えます。

根白坂に砦を設ける豊臣秀長

根白坂に砦を設ける豊臣秀長

秀吉の参戦

そんな中、秀吉自身も豊前に上陸して秀吉は九州西部から侵攻を始めました。

そして筑前や肥後にまで攻め入り、秋月種実などの島津家に味方していた勢力を次々と降伏させていきました。

九州西部から侵攻を始める豊臣秀長

九州西部から侵攻を始める豊臣秀長

島津義久、決戦を覚悟

そして義久は「秀吉の軍は一旦無視して先に秀長の軍から倒そう」と考えます。

これは、豊臣軍が総勢18万(諸説あり)もいるに対し島津軍は3万5千と少なかったため、一度に2つの軍は相手せず各個撃破しようとしたのでしょう。

そして義久は3万5千の軍を率いて、高城を包囲する秀長の軍に進軍を始めたのです。

根白坂の戦い

砦への急襲

そして高城に迫った義久、義弘、家久は根白坂に築かれている砦へ奇襲をかけます!

しかし、もともとはこの奇襲を想定して造られた砦なので、この攻撃は豊臣側としては計算通りでした。

しかしそれでも砦を守る宮部継潤の軍1万と互角の戦いを繰り広げます。

宮部継潤と戦う島津義久ら

宮部継潤と戦う島津義久ら

藤堂高虎と戸川達安の機転

しかし、ここに高城を包囲していた藤堂高虎戸川達安などが5百の兵を率いて継潤に加勢しました。

宮部継潤に加勢する藤堂高虎と戸川達安

宮部継潤に加勢する藤堂高虎と戸川達安

ここから島津軍の戦況は劣勢へと傾いていきます。

挟撃されて壊滅へ

さらに高城を包囲する軍から小早川、黒田軍が加勢します。

さらに加勢する小早川隆景と黒田官兵衛

さらに加勢する小早川隆景と黒田官兵衛

しかも、豊臣軍の鉄砲隊が次々と鉄砲を撃っていったので、さすがの島津軍も退かざるを得なくなりました。

一族の島津忠隣などの家臣を犠牲にしながら、島津軍は撤退していきました。

撤退していく島津軍

撤退していく島津軍

島津軍の大半も討たれ、豊臣軍の大勝利で根白坂の戦いは終戦することになります。

その後

戦力を大きく失った島津軍は、さらに退いた所で豊臣軍を迎撃するしか手段を無くしてしまい、日向国の南方まで撤退をしていきました。

しかも、秀吉率いる西部への侵攻軍が本拠地の薩摩まで侵攻しており留守をしていた島津忠長島津忠辰が攻撃に耐えられず降伏してしまいます。

そのため島津義久は負けを認めて出家し秀吉に降伏しました。

こうして、秀吉による九州平定は成功に終わり幕を閉じます。

まとめ

  • 豊臣秀長の軍勢が高城を包囲したことで根白坂の戦いが始まった
  • 次々と豊臣軍が加勢して根白坂の戦いは豊臣側が勝利した
  • 根白坂の戦いによって秀吉は九州平定を成功させる

最後まで読んでいただきありがとうございました。