戦の図鑑

20:00に不定期更新しています。

山崎の戦いをわかりやすく簡単に図解解説!明智光秀の天下が懸かった大戦

f:id:Hakase1:20200118092530j:plain

山崎合戦の地 出典:wikipedia



皆さんこんにちは!

 今回は、本能寺の変で下克上を起こし、信長を討った明智光秀と、光秀の天下を止

めようとする羽柴(豊臣)秀吉との戦いである「山崎の戦い」について解説していきま

す!

 山崎の戦いまで

本能寺の変で信長、信忠討たれる

 時は1582年…日本は織田信長によって統一される。と誰もが考えるなかで驚愕の事

件が起こります。

本能寺の変」です。

この事件によって織田信長と、その後継者としての地位を積み上げていた嫡男信忠

が、信頼していた家臣明智光秀によって殺害されます。

(ここでは詳細は省きますが、気になる方はこちらで解説しているので良ければご覧く

ださい。)

ikusa-zukan.hatenablog.com

羽柴秀吉の動向~中国大返し

 この情報を知った羽柴(後に豊臣)秀吉はこの時西国の覇者毛利氏の城を攻めていまし

たが、急いで毛利氏と講和し、光秀のいる場所へ向かいます。

毛利氏との講和までにかけた時間はおよそ半日!

毛利氏はこの時苦戦していて、秀吉が毛利氏に信長が死んだことを知らせないように

(知ったら反抗してくるから)していたことがこの速さの理由だと思います。

速かったのは1日だけ?

ここからがかの有名な「中国大返し」です。この言葉を聞いたことがある方は、とて

も早く行軍したとイメージするかと思います。

しかし、秀吉軍の行軍スピードは

  • 1日目 亀山城到着 22㎞
  • 2日目 姫路城到着 70㎞
  • 3日目 明石城到着 35㎞
  • 4日目 兵庫付近  18㎞
  • 5日目 尼崎付近  26㎞
  • 6日目 富田付近  23㎞
  • 7日目 山崎付近  6㎞

と2日目だけ異常な距離を進んでいたことが分かると思います。

当時の平均的な進軍距離は1日20㎞

 

と言われており、他の日もかなりの距離を進んでいたとはいえ正直そんなに…なんで

すよね。

他の家臣は動けなかったの?

この時他の家臣はどうしてたの?というと

と、とてもじゃないけど向かえない状況にありました。(ここで出てきてない有名な家

臣は後で出てきます)

明智光秀の動向

一方その頃光秀は、仲間を増やして帰ってくるであろう秀吉や、その他信長の家臣と

の戦いに備えようしていました。

誰も味方に付いてくれない…

この時いろいろな人物に、協力するようお願いしましたが、ほとんどの人物が敵対す

るか、様子見をしていました。

仲間になった者もいましたが、それらの人物も、光秀に味方しない者によって殺され

るなどしていて光秀も焦っていたことでしょう。

驚くべきことは姻戚関係(身内)にあった細川幽斎・忠興親子

まで味方しないと言われたことです。

味方がほぼ自分直属の軍しかいない光秀はだんだんと勝機を失って行くこととなりま

す。

山崎の戦い

 そして山崎の戦いが始まっていくのですが、ここで一旦お互いの戦力を確認してい

きましょう。

秀吉軍 40000

主な武将

光秀軍 16000(諸説あり)

主な武将

秀吉軍は始めは2万程でしたが、大返し中に信長三男の信孝や重臣などと仲間が集ま

り、戦う頃には4万にまで膨れ上がりました。

一方光秀は来ると思っていた援軍が来ず、かなり厳しい戦いを強いられることになり

ます。

天王山

この山崎の戦いにおいて、天王山という場所はとても重要な拠点でした。

なぜなら山の上から見渡して、合戦の全体の様子を見られる数少ない場所だったか

ら。

その場所にどちらの軍も、兵を置きたかったのですがここでその競争に勝ったのが

羽柴秀吉

その結果このように両軍は布陣することになりました。

 

f:id:Hakase1:20200118091758j:plain

両軍、布陣/地理院タイル(国土地理院)を加工して作成 https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html

光秀も家臣に天王山を取りに行かせますが失敗し、光秀が不利のまま本格的に合戦が

開始することになります。

一進一退

先に動いたのは光秀軍でした。

光秀方の伊勢貞興隊が、正面にいた秀吉方の中川清秀隊を攻撃することで戦いは始ま

りました。

それに合わせて光秀の重臣斎藤利三隊も、向かい合う高山右近隊に攻撃を仕掛けま

す。

f:id:Hakase1:20200118091926j:plain

戦いの始まり/地理院タイル(国土地理院)を加工して作成 https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html

この時、秀吉軍の2つの隊は猛攻によっていつ壊滅してもおかしくはありませんでし

が、2万もある秀吉本軍から援軍が届くことによって何とか持ちこたえます。

f:id:Hakase1:20200118092023j:plain

援軍で命拾い/地理院タイル(国土地理院)を加工して作成 https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html

その攻撃を見た光秀軍松田政近らは、交戦中の敵を挟撃するため先に天王山に布陣し

ていた秀吉軍を攻撃し、全体にまで戦の波が広がりました。

ここまでかなりの兵数差があるにも関わらず、光秀はよく戦っていました。

急襲

はっきり流れが変わったのは、秀吉方池田恒興らが川を渡り光秀方の津田信春に急襲

を仕掛けた所から。

f:id:Hakase1:20200118092115j:plain

戦局の変化/地理院タイル(国土地理院)を加工して作成 https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html

信春から見たら想定外の場所から攻撃されたので、持ちこたえられず崩れていきま

す。

そこから斎藤利三隊と戦っていた高山右近隊、伊勢貞興隊と戦っていた中川清秀隊が

徐々に押し返し、戦局がみるみるうちに秀吉の優勢になっていきます。

そうなると光秀に逆転のチャンスが無くなり、軍が崩れていきます。

f:id:Hakase1:20200118092158j:plain

天下分け目の戦、終結/地理院タイル(国土地理院)を加工して作成 https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html

家臣の奮戦により、かろうじて光秀本人は後方の勝龍寺城に逃げ帰りますが、さらに

後方へ移動するときに農民の落武者狩りによって殺されてしまいます。

こうして光秀の天下の夢が消え去ることで戦いは終わりを迎えました。

意外と早く終わった

戦いが終結するまでにかかった時間は数時間。

天下分け目の戦いというわりにはすぐ終わった感じがありますね。

その後

 その後秀吉軍は光秀の残党を倒し、明智氏は滅亡します。

こうした功績によって秀吉はこの後信長の天下を受け継いでいきます。

まとめ

  • 中国大返しは1日だけ速かった
  • 仲間を集められなかったのが光秀の敗因
  • 光秀を倒した秀吉は織田政権の主導権を握る

というわけでここで解説を終わろうかなと思います!

ここまで読んで頂きありがとうございました(*- -)(*_ _)ペコリ