今回は、「三方ヶ原の戦い」について解説していきます!
この戦いは、「川中島の戦い」などで数々の名将と戦いを繰り広げた歴戦の武将、
この戦いで家康は、生涯でもっとも大きいとも言える大敗北を喫することになり、その後自領の侵攻を許す結果になりました。
三方ヶ原の戦いまでの両将
始めに三方ヶ原の戦いの2人の大将について軽く触れておきましょう。
武田信玄
武田信玄は代々甲斐国(山梨県)を支配していた武田家の当主で、上杉謙信などの数々の名将と渡り合い、その手で隣国の信濃国(長野県)を平定した言わずと知れた武将です。
徳川家とは元々仲があまり良くなかったのですが、この時隣の大名である今川家を徳川家康と共に攻めていて、占領した今川家の領地の配分で家康と意見が合わなかったことが、戦うことになった直接の原因だったと思います。
徳川家康
徳川家康は三河国(愛知県東部)を支配する松平家の当主でした。
しかし当主になったばかりの頃は、今川家の支配下に置かれており、実質今川家の家臣という状況でしたが、「桶狭間の戦い」によって今川家の当主、今川義元が討たれると、家康は今川家から独立することに成功しました。
徳川家康は、後に天下統一を果たす人物だけあって、若き日からその力量を発揮していました。
そして三方ヶ原の戦いへ
三正面作戦
徳川攻めを決めた信玄は、総勢約3万の軍勢を3つに分け、その内容は
というものでした。
信友隊は主に美濃国(岐阜県)を攻め、昌景隊は主に三河国を攻め、信玄は、遠江国(静岡県)を攻めるという三正面作戦を展開しました。
この3万の軍に対して家康の動員できる兵は1万ほど。
しかもこの時、家康の同盟相手の織田信長も他の敵との戦いに明け暮れており、援軍もあまり出せない状況でいました。
この兵数差のためか、家康は重要拠点を次々と落とされます。
破竹の進撃
美濃攻めを任された信友隊は、家康の同盟相手である織田信長の城である岩村城を包囲しました。
そして当時城主は女だったため、驚くべきことにこの信友はその女と結婚して自分が実質城主になるという荒業を見せ、岩村城を戦わずして落としました。
三河攻めを任された昌景隊も長篠城などの三河から遠江にかけての城(主に3つ)を落とし、任務を果たした後、信玄本隊と合流しました。
一方の信玄本隊は、まず遠江に侵攻し犬居城で家臣の馬場信春に5千の兵を預け、只来城の攻略をさせます。
この信春隊は只来城を落として、二俣城を包囲します。
そして1万7千人となった信玄本隊も、家康方の城を次々を落として行きました。
前哨戦~一言坂の戦い~
そして幸先良く城を落としていった信玄本隊は馬場信春が包囲している二俣城に合流する動きを見せました。
すると家康は、要所と要所を繋ぐ大切なこの城を落とされることに焦ったのか、家臣の本多忠勝らを偵察に向かわせ、自分も3千の兵を引き連れて二俣城を包囲していた
信春隊に襲いかかります。
ですが、数の少ない偵察隊が先に敵と遭遇して戦ってしまったことで軍が崩壊し、敗走してしまいました。
こうして三方ヶ原の戦いの前哨戦である「一言坂の戦い」と呼ばれたこの戦いは武田信玄の勝利に終わりました。
重要拠点・二俣城陥落
一言坂の戦いに勝利した信玄方は、信玄本隊も合流し二俣城を包囲しました。
この攻城戦をしている間に、先ほど三河攻めをしていた昌景隊も加わったので最終的には総勢2万7千の大軍で、城を包囲しました。
この大軍に包囲されては流石の重要拠点も落城の時が来ます。
2ヶ月ほど持ちこたえましたが、結局はこの二俣城も落城してしまいました。
信玄の素通り
「二俣城が落とされたら、次は自分のいる浜松城に攻めてくるだろう」
と考えた家康は、浜松城で籠城することを決め、準備をしていました。
こうして家康は、信玄が来ることを今か今かと待ち構えていましたが、肝心の信玄本隊は、まさかの浜松城を素通りして、違う方向に向かっていきました。
家康の出陣
家康はこの自分を無視するかのような動きに怒り、周囲の反対を押し切って浜松城から出陣しました。
その軍は
- 家康本隊 8000
- 信長援軍 3000
合わせて1万1千という、信玄本隊にはとてもじゃないけど敵わないレベルの兵数でした。
開戦
こうして家康は信玄の行った道を追うことになった訳ですが、進軍してちょうど三方ヶ原台地という場所にまで家康軍が着いたとき、
なんと突然信玄軍が現れ、家康軍に向かってきたのです!
家康としては、信玄は自分を無視して進軍していったはずなので、もっと先に信玄本隊がいると予想していました。
しかし信玄軍は魚鱗の陣という陣形を使い、家康軍に向かってきたので、家康は
鶴翼の陣という陣形を使って戦いが始まることになりました。
ここで簡単に陣形の説明をしましょう。
魚鱗の陣とは、狭い場所に△の形で兵を集める陣形のことで、包囲がされやすいのですが、正面突破がしやすい形でした。
一方の鶴翼の陣は、V字型に兵を広げる陣形で、逆に包囲がしやすいのですが、兵を薄く広く配置することになるので正面突破に弱く、相手が魚鱗の陣で来られると苦戦を強いられました。
つまり信玄軍が魚鱗の陣で来た場合、家康は鶴翼の陣以外の陣形にする必要がありました。
このような陣形選択のミスなどから家康の未熟さが感じられますよね。
敗走
この陣形の相性や兵数の差があり、家康は次第に押されていきます。
そして戦いを継続することが無理だと感じた家康は、家臣に身代わりになってもらって自分は浜松城に逃げ帰ります。
この時家康は命懸けで逃げたので、逃げる途中で糞を漏らしたという伝説があるほどです。
危機一髪
こうして何とか浜松城に帰った家康ですが、信玄軍が追ってきていたのでここである一計を案じます。
それは「空城計」というものでした。
これは城の門をわざと開けて中に人が居ないと見せる計略でした。
やがて信玄の先鋒が浜松城に追い付きますが、この城門が空いた城を見て怪しいと感じたのか城を攻めずに帰っていきました。
家康はすんでのところで命拾いをしました。
こうして三方ヶ原の戦いが終わりました。
その後
その後も勢いに乗った信玄が三河を攻めますが、信玄の患っていた病気が重くなり引き上げて行きました。
そしてまもなく信玄は病死してしまったのです。
この信玄の死により家康は力を取り戻し、最終的には同盟相手の織田信長と協力して武田家を滅亡させました。
まとめ
- 信玄と家康には大きな兵数差があった
- 籠城せずに出陣して信玄の罠にかかってしまったことが大きな敗因だった
- その後は家康が盛り返し武田家を滅ぼした
ということでここら辺で解説を終えます。
お付き合い頂きありがとうございました(*- -)(*_ _)ペコリ