今回は、政宗の最大のピンチである「人取橋の戦い」について解説していきます。
この人取橋の戦いで、伊達政宗は奥州の多くの勢力を敵に回してしまいました。
そして多くの被害を出すことになるのです。
- 人取橋の戦いはどうして起こったのか?
- 人取橋の戦いはどのような戦いだったか?
- 人取橋の戦いはどのように終わったのか?
人取橋の戦いまでのいきさつ
人取橋の戦いの原因は大内定綱の裏切りにありました。
城に籠った女子供を容赦なく殺害
この大内定綱という人物は伊達政宗に従っていましたが、いろいろあって
政宗を裏切りました。
これにブチ切れた政宗は、定綱のいる小手森城に攻め入ります。
そして城に籠っている兵はもちろん、
政宗は戦に関係ない女子供までほぼ全員殺してしまったのです。
これだけ聞くと政宗のイメージが悪くなりそうですよね。
でもこれには理由があって、
政宗には自分を敵にしたら容赦ないんだぞと思わせる狙いがありました。
そうすることで自分に味方すると思ったんでしょうね。
しかし、周りの大名にはあいつヤバい奴だな、あんな奴に城をとられたくないという風に受け取られてしまったんです。
むしろ周りは、政宗に味方したくない、と思うようになっていました。
畠山義継の復讐で父が犠牲に
この城攻めを見た定綱の親戚の畠山義継はこのままじゃ自分もやられると思い、政宗に降参をしました。
しかし義継に降参する気は全くありませんでした。
降参するフリをして政宗のお父さん伊達輝宗のいる城に入り、油断した隙をついて
輝宗を誘拐してしまったんです!
これを知った政宗は、輝宗を救出しようと頑張りました。
でも救出が難しいと判断した政宗は、
義継を輝宗もろとも鉄砲で撃って道ずれにしてしまうということを泣く泣くすることにしました。
畠山を倒す!でも気が付けば四面楚歌
父親を殺した原因を作った畠山家に怒った政宗は、自ら軍を率いて義継の息子、
畠山国王丸の籠る二本松城に攻め寄せました。
しかし、守りは固く、中々攻め落とせずにいたんです。
一方その頃、先ほどの攻城戦で政宗に良い印象を持ってなかった大名は、国王丸を助けるため、力を合わせて総勢3万の対伊達連合軍を結成していました。
加わった勢力は
-
佐竹家
-
蘆名家
-
相馬家
-
岩城家
-
二階堂家
-
石川家
-
白川家
などです。
政宗は絶望的な状況になってしまいました。
人取橋の戦い
決戦を挑むも圧倒的な兵力差
対する伊達軍は、初めは1万3千人いましたが、二本松城から移動するためには二本松城を監視するための兵を置かなくてはなりません。
なので、ただでさえ連合軍よりも少なかった兵をさらに減らすことになってしまったんです!
そしてわずか7千人となってしまった伊達軍でしたが、それでも政宗は連合軍と戦う気満々で堂々と連合軍に向かっていきました。
3万vs7千。圧倒的な兵力差でした。
正面衝突!やっぱり政宗の劣勢へ
兵数差があったらなんか普通に戦ったら負けそう。だから変わった戦い方しそう。
と思うものですが、政宗は人取橋でそのまんま正面から連合軍と激突しました。
そんな戦い方で政宗が勝てるはずなく、1日もしないうちに政宗が超不利という状況になってしまいました。
命がけの撤退戦
さすがにやばいと思った政宗は、ここから逃げることにしました。
そのため、家臣の鬼庭左月斎や伊達成実などに囮になってもらって、自分は何とか戦場から逃げることになります。
囮になるということは、敵の攻撃を一手に引き受けるという事。
被害も尋常じゃなく、成実は挟み撃ちされつつも撤退を成功させますが、
左月斎は討ち死にしてしまいました。
滅亡の危機?しかし命拾い
こうして撤退戦を終えた伊達軍でしたが、連合軍はまだまだ元気!
まだ政宗のピンチであることには変わりなかったのですが、危機一髪。
この時、連合軍のリーダー佐竹家の領地に敵が攻めてくるぞと言われていたので、伊達を攻めてる余裕が無くなり、連合軍は解散していきました。
その後
この戦いで政宗は鬼庭左月斎をはじめ、多くの家臣を失うことになりました。
それでも政宗はこの敗戦をものともせず、翌年再び二本松城に攻め、ついに落城させることに成功します。
「人取橋の戦い」の戦いを機に、衰えていくと思われていた伊達家でしたが、むしろ勢力を大きくしていくのでした。
まとめ
-
大内定綱、畠山義継&国王丸を攻めたことが戦いの始まり
-
正面から戦うも、兵力差のため政宗の敗北
-
鬼庭左月斎、伊達成実の奮戦で撤退に成功
最後まで読んでいただきありがとうございました!