今回は、「大崎合戦」について解説していきたいと思います!
- 「大崎合戦」が始まったきっかけ
- どのように「大崎合戦」が行われていったのか
- 「大崎合戦」がどのように終わったのか
大崎合戦までのいきさつ
ここからは大崎合戦までの動きを解説していきます。
大崎家の独立
伊達家の当主が政宗に新しく変わった時、畠山義継が政宗の父伊達輝宗を誘拐し、
政宗に輝宗ごと鉄砲で撃たれてしまう、という事件が起こります。
そしてそこから起こった戦いで政宗は負けてしまいました(「人取橋の戦い」を参照)。
これを知った伊達家に従っている武将は「これじゃ伊達家の将来が不安だ」
と考えて政宗を裏切る、ということが多くありました。
今回の主役である「大崎家」も政宗を見限っていた内の一人だったのです。
仲間割れに首を突っ込む
でも、大崎家は全員が政宗を裏切ろうとしていた訳ではありませんでした。
主君の大崎義隆と家臣の氏家吉継らが仲間割れを起こしていて、
- 主君の大崎義隆=伊達家から独立したい派
- 家臣の氏家吉継=伊達家に従っていたい派
という内部構造になっていたのです。
大崎家を再び従わせたいと思っていた政宗は、この大崎家の複雑な状況に目をつけました。
そんな時に吉継が政宗に「協力してほしい」と頼んできます。
政宗は「これを機に大崎家を支配するチャンス」と思い、家臣の留守政景に命じて兵を送りました。
要は、吉継に力を貸して主君の義隆を一緒に倒せれば、吉継は恩人である自分に従わざるを得ない、と政宗は考えた訳ですね。
大崎合戦
中新田城攻防戦
政宗に命じられて進軍を始めた政景は、まず中新田城に攻めかかります。
しかし大雪のせいで中々攻められず、一旦攻撃を中止することにしました。
またこの地は湿地帯で動きづらかったので、それも城を落とせないことに影響したんでしょうね。
攻めから守りへ立場逆転
この隙を突いて、中新田城に籠っていた南条隆信という武将が、兵と共に城から出て政景に襲い掛かりました。
しかもこの動きに合わせて大崎家の武将、黒川晴氏が突如現れ奇襲を仕掛けます!
政景は、いきなり挟み撃ちされる形になってしまったのです。
これに驚いた政景は急いで新沼城へと逃げ帰りました。
大崎軍はこれを逃さず、伊達軍を追撃し新沼城を包囲します。
因みに政景に奇襲をかけた晴氏は、なんと政景の妻の父(岳父)でした。
伊達軍撤退
親戚でも容赦なし。これが戦国時代なんだな…と思いますが、さすがに晴氏にも良心がありました。
晴氏が政景に対して降伏するように説得したのです。
これを政景も受け入れ、伊達家から人質を出すことで、晴氏は城の包囲を解き戦いが終わりました。
しかし、これで大崎合戦が終了したわけではありませんでした……
最上義光の参戦
大崎家の争いに入り込んでいった政宗に対して、伯父で最上家当主である最上義光は怒っていました。
そして義光は政宗に敵対している義隆に味方して、間接的に政宗の敵に回ります。
こうして義光は義隆の援軍として伯父であるにも関わらず、5千の兵をもって政宗の領地に攻め込んでいきました。
義光としては、大崎家の行く末などは正直そこまで気にしていなく、ただ政宗を叩きたかっただけな気もしますね。
義光は伊達家の領地である黒川郡や志田郡を占領することに成功します。
政宗は「人取橋の戦い」以来のピンチになってしまいましたが、またもや危機を脱することになります。
義姫のおかげで命拾い
その頃、義光の妹で政宗の母である義姫は、兄と息子の板挟みだった立場を生かして、最上家と伊達家を仲直りさせようと努力をしていました。
この努力は実を結び、和睦が成立することになります。
義光も妹の義姫に「政宗を説得するように」といっていたそうで、仲直りする気もあったことが分かりますね。
これで政宗は絶体絶命の危機からまたも助かりました。
こうして大崎合戦は伊達家の敗北となりながらも何とか終結しました。
でも政宗の野望は失敗に終わり、大崎家は結局独立したまんまだったんですけどね。
その後
これで伊達家にも平和が訪れる……はずでしたが、この大崎合戦での政宗の敗北を待ちに待って、戦を仕掛けようと動いていた人物がいました。
それが蘆名家当主、蘆名義広と、相馬家当主、相馬義胤でした。
政宗の敗北を知った二人は伊達家への侵攻を始め、それが「郡山合戦」へと繋がっていくことになるのですが、これは今度解説していきます。
まとめ
- 大崎家の内紛に介入して大崎合戦が起こった
- 最上義光の参戦によって敗北が決定的になった
- 政宗の母、義姫によって戦いが終結した
最後まで読んでいただきありがとうございました!