戦の図鑑

超わかりやすく戦を図解で解説していきます!

今山の戦いとは?5000VS60000という兵力差での奮戦をわかりやすく図解解説!

 今回は、「今山の戦い」について解説していきたいと思います!

この今山の戦いは、この時まだ弱小勢力でしかなかった龍造寺隆信が、九州の大勢力の当主大友宗麟に挑んだ戦いです。

この今山の戦いで隆信は、敵軍の数がが自軍の12倍もいるという圧倒的に不利な状況下にもかかわらず、実質上の勝利を収めました!

この記事でわかること
  • 今山の戦いが起こったきっかけ
  • どのように今山の戦いが行われたのか
  • どのように今山の戦いが終結したのか

今山の戦いまでの両家

まずは、今山の戦いが起こるまでの両家について軽く説明していきます。

龍造寺隆信

 龍造寺家はそもそも少弍家という家の家臣でした。

しかし、この戦国時代に「下克上」を起こし、ついに少弍家を滅ぼして自分が戦国大名になることに成功します。

隆信の時代では、幼少期に父や祖父が殺されてしまい、一時的に龍造寺家を衰退させてしまいます。

しかし曾祖父などに助けられ勢力を広げ、今山の戦い直前では肥前国(長崎県、佐賀県)の半分を治めつつありました。

龍造寺隆信

龍造寺隆信/出典Wikipedia

ちなみに、この時龍造寺隆信は九州において力を持っていた大友宗麟に従わざるを得ませんでした。

なので、この戦いは龍造寺隆信の独立をかけた戦いとも解釈できますね。

大友宗麟

 一方の大友家は代々豊後国(大分県、福岡県東部)を治める大名で、当主の宗麟も積極的に勢力を広げ、この時

  • 豊後国 大分県北部以外
  • 豊前国 福岡県東部、大分県北部
  • 筑前国 福岡県西部、北部
  • 筑後国 福岡県南部
  • 肥前国 長崎県、佐賀県(龍造寺家が支配下)
  • 日向国 宮崎県 半国
  • 伊予国 愛媛県 半国

という大友家で最大の勢力図を築き上げるまでに成長していました。

大友宗麟

大友宗麟/出典wikipedia

今山の戦いが起こるまで

龍造寺隆信の成長

戦いを起こそうと先に動いたたのは宗麟の方でした。

宗麟は一応は隆信を支配下に置いてはいたものの、

勢力をじわじわと伸ばしていた隆信を危険な存在だと考えていたからでした

大友宗麟の挙兵

そして宗麟は隆信を倒すことを決め、3万の軍勢を率いて龍造寺方の城である佐嘉城を包囲しました。

佐嘉城を包囲する大友宗麟

佐嘉城を包囲する大友宗麟

 

一方、龍造寺軍の軍勢はおよそ3千

大友軍との兵数差は十倍になり、早くも絶体絶命となった隆信でしたが、

まさかの人物に助けられることになります。

毛利元就の脅威

宗麟が肥前に軍勢を率いていたとき、それを虎視眈々と狙っていた大名がいました。

それが西国の大大名、毛利元就でした。

元就についての詳しい説明は割愛しますが、元就は小さな領主から一代で中国地方をほとんど支配下に収めたほどの実力者です。

中国地方を支配した元就の次の狙いが九州地方で、過去にも大友宗麟と争いをしていました

その元就が数万の軍勢を率いて筑前国に侵攻を始めたため、急いで大友宗麟は佐嘉城の包囲を解き、筑前国の救援に向かうことになります。

筑前国に侵攻を開始する毛利元就

筑前国に侵攻を開始する毛利元就

2度目の挙兵

大友軍の脅威からなんとか生き延びた隆信でしたが、また危機がやって来ます。

宗麟が再び侵攻を始めたのです。

筑前国に向かった宗麟は、元就との戦いに勝利して、後ろの脅威を無くして

再び佐嘉城に向かってきたのです。

今山の戦い

大友宗麟、着陣

佐嘉城に到着した宗麟は、6万の軍勢で下の図の様に再び包囲を始めました。

布陣をする大友宗麟

布陣をする大友宗麟

籠城戦

一方の隆信軍は5千

前回の3千よりかは増えましたが、正面から戦うほどの兵数は無く、城に籠って戦うしか選択肢はありませんでした。(城を落とすには籠っている兵の10倍はいると言われているので)

こうして隆信は籠城をすることになり、それから長い間耐えましたが、だんだん食糧が減っていき、数ヶ月すると落城は時間の問題とまでなってしまいした。

しびれを切らす

このような隆信が危機の中、宗麟も宗麟でなかなか城が落ちないことに焦っていました。

城が数ヶ月経っても落ちないことに怒った宗麟は、弟の大友親貞に本陣から3千の軍勢を預けて指揮をさせ、他の軍と共に城を一斉攻撃するようにと命じます。

命じられた親貞は、早速後方の本陣から前線に向かいますが、占いで凶兆がでたので、すぐには攻撃を開始せず後日に攻撃を延期させました。

当時は武将が占いで行動するかを決めることが多々あったのです。

前線に向かう大友親貞

前線に向かう大友親貞

大友親貞の油断

こうして攻撃をする日時を延期させた親貞でしたが、攻撃する日の前日に驚くべき出来事を起こします。

圧倒的な兵数差から見て勝利を確信した親貞は、大事な戦いが次の日にあるにもかかわらず酒宴を開いたのです。

完全に親貞は隆信を舐めきっていたことが分かりますね。

鍋島信生の夜襲

こうして親貞達が酒宴を開いている中、親貞隊の油断の隙をついて奇襲を仕掛けることを進言したものがいました。

それが隆信の義兄弟であり重臣の鍋島信生(直茂)でした。

隆信を許可を得た信生は、5百~7百の兵を率いて、奇襲を試みます。

そして大友親貞隊の背後に忍び寄った鍋島信生隊は、一斉に敵に向かって突撃を開始しました!

奇襲を仕掛ける鍋島信生

奇襲を仕掛ける鍋島信生

敗走、終戦へ

この時親貞は酒宴を真っ只中なので、多くの兵が酔いつぶれていました。

そこに佐嘉城にいるはずの信生が突然現れたからびっくり!

酔っている兵達は戦えるはずもなく次々と討たれていき、やがて壊滅状態となっていきました。

親貞もどうにか逃げようとしますが、結局は討たれてしまうことになりました。

この戦の犠牲者は大友軍で2千人といわれているので、2千/3千で3分の2の確率で親貞隊の兵が死んでいったことになります。

討死する大友親貞

討死する大友親貞

こうして親貞が討たれたことで、今山の戦いは終わることになります。

その後

この戦いに勝った隆信は宗麟から独立を果たせたと思いがちなんですが、宗麟は弟と2千の兵が討たれたといえども、全体的には兵力はまだまだ残っていました。

なので、勝利したといえど隆信が不利な状況なのは変わらなく、結局は龍造寺隆信の弟(龍造寺信周)を大友宗麟に引き渡すという龍造寺側の不利な条件で講和することとなります。

なので一応は大友宗麟が勝ったと見ることもできますが、この戦い以降勝利が減っていき、しかも耳川の戦いなどで家臣を多く失い、衰えていくことになっていきます。

隆信も、今山の戦いが終わってもまだ大友宗麟の支配下にありましたが、後に独立を果たし、勢力を広げて九州を三分する勢力にまで成長させていきます。

まとめ

  • 龍造寺隆信の成長を恐れた大友宗麟によって今山の戦いが起こった
  • 鍋島信生の奇襲によって大友宗麟の弟が討たれる
  • 今山の戦いを契機として両者の力関係が変わっていく

最後まで読んでいただきありがとうございました。