戦の図鑑

超わかりやすく戦を図解で解説していきます!

沖田畷の戦いとは?当主が討死した数少ない一戦をわかりやすく図解解説!

 今回は、「沖田畷の戦い」について解説していきたいと思います!

この戦いは、鎌倉時代から数百年続く名門島津家と、一代で戦国大名として勢力を最盛期までに築き上げた実力者、龍造寺隆信が九州地方の覇権を懸けて争った戦いでした。

この戦いで、なんと大将の龍造寺隆信は討ち取られてしまいます…

この記事でわかること
  • 沖田畷の戦いが起こったきっかけ
  • どのように沖田畷の戦いが行われたのか
  • どのように沖田畷の戦いが終結したのか

 沖田畷の戦いまでの情勢

九州三国志の終焉

戦国時代では、九州は大友家島津家龍造寺家の3家が、九州地方の統一を懸けて争う、まさに三国志と言える「九州三国志」時代でした。

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島津義久、龍造寺隆信、大友宗麟/出典wikipedia を加工して作成


(※現在の県境を元に制作しているので多少の領地の違いがあります。)

ですが、九州3強の一つ大友家が「耳川の戦い」で島津家に敗れ、滅亡…とまではいきませんでしたが、大切な家臣を多く戦死させ、九州を統一させる力はなくなっていくこととなります。

なので、この時点で「九州三国志」時代は終わり、

ここからは残った島津家と龍造寺家が九州の覇権を懸けて争うことになります。

島津家

 島津家は鎌倉時代から明治維新まで、数百年の間大名が続いた名家

で、当時勢力が衰えてきていました。

島津義久

島津義久/出典wikipedia

しかし、当主島津義久は元々の領地であった日向国(宮崎県)を取り返し

  • 薩摩国 (鹿児島県西部)
  • 大隅国 (鹿児島県東部)
  • 日向国 (宮崎県)

を治める大名へと復活を遂げていました。

龍造寺家

 一方の龍造寺家は、元々は九州の大名少弐家の家臣でした。

しかし下克上によって少弐家を乗っ取り

  • 筑前国 (福岡県西部)
  • 筑後国 (福岡県南部)
  • 豊前国 (福岡県東部、大分県北部)
  • 肥前国 (佐賀県、長崎県)
  • 肥後半国 (熊本県北部)

を治める立派な戦国大名になることに成功します。

龍造寺隆信

龍造寺隆信/出典Wikipedia
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沖田畷の戦いまでの道のり

有馬家の内応

 九州には島津家と龍造寺家だけがあったわけではありません。

肥前国の一部を治める大名、有馬家は九州の島津、龍造寺家と比べると力が無かったため、

どちらの家に臣従しなければ、家が滅んでしまってもおかしくない状況でした。

始めは領地の関係から龍造寺家にしたがっていましたが、龍造寺家当主の隆信には人望がなく、隆信から背き龍造寺方の千々石城を攻めます。

千々石城を攻める有馬晴信

千々石城を攻める有馬晴信

この時有馬家当主、有馬晴信は、龍造寺家に敵対する島津家に援軍を要請しました。

この要請を受け入れた島津義久は援軍を送り、そのお陰で千々石城を落としました。

援軍を送る島津義久

援軍を送る島津義久

援軍を送ったくれた義久に晴信は感動し、

以降有馬家は島津家に従っていくことになります。

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深江城攻城戦

その翌年、深江城を攻めていた晴信は再度島津家に援軍を要請しました。

深江城を攻める有馬晴信

深江城を攻める有馬晴信

義久は龍造寺家を倒そうとしていたので、また援軍を送りましたが、龍造寺方が善戦し、島津家は城攻めに失敗しました。

こうした一進一退の攻防はあくまでも少数の兵同士の小さな戦いでしたが、その翌年に義久は隆信と決着をつけるため、一大決戦を挑みます。

島津援軍

隆信も島津と決着を着けることを決め、自ら2万5千人を率いて、神代に上陸しました。

神代に上陸する龍造寺隆信

神代に上陸する龍造寺隆信

一方の義久も自ら兵を率いたい所でしたが、大軍が動けば周りの敵が攻めてくると考え、弟の家久を大将に3千の兵のみしか送ることができませんでした。

もちろん有馬家の軍もいたのですが、それでも合わせて6千程の兵のみでした。

有馬晴信と合流する島津家久

有馬晴信と合流する島津家久

島津家としてはこれだけしか軍を集められなかったのは大きな痛手でしたが、

この少ない兵数が、隆信の油断を生むことになります。

鍋島信生の諫言

神代から三会城に龍造寺軍は移動し、ここで敵軍が予想より少なかったことを知った隆信は、すぐにでも決戦を仕掛け島津と有馬を潰してしまおうと考えました。

三会城に入城する龍造寺隆信

三会城に入城する龍造寺隆信

ですが隆信の重臣、鍋島信生(直茂)は大友家に大勝を収めた島津の軍の強さを知っていたので

「島津軍が帰るまで戦わずに、帰ってから有馬を倒そう」

と持久戦を隆信に進言したそうです。

しかし隆信は、龍造寺家をここまで大きくしてきた自分に酔いしれており、自分の意見は絶対、と思ったのか信生の諫言を聞き入れることはなく、島津と決戦をすることが確実になります。

家久の覚悟

龍造寺家では主君と家臣で意見の食い違いがありましたが、その頃

島津家、有馬家の間にも意見の食い違いがありました。

有馬軍の大将晴信は、

「兵数差があるから今は戦いを避け、島津援軍がもっと本格的に来てから戦うべき」

という意見を持っていました。

兵数に差があれば、大軍と戦いたくない気持ちもわかりますよね。

一方の島津軍大将の家久は、

「地形を生かしつつ龍造寺軍を迎撃しよう」

という意見でいました。

丁度有馬家の領土には、「沖田畷」という少数の兵が大軍に太刀打ちできる場所がありました。

ここで戦えば勝機が見込めたので、家久の意見が通り、これで両軍戦うことが決まりました。

天然の要害、沖田畷

一旦ここで、大勝負の舞台となる「沖田畷」について少し見ていきましょう!

まず「畷」とは「田んぼや畑に挟まれた道」

という意味で、この沖田畷も例に漏れず沼地や深田に挟まれた狭い道でした。

沖田畷

沖田畷

沼地に入れば身動きがとれないので進むには間の狭い道を通るしかありません。

どのくらい狭いかと言うと、頑張っても2、3人しか横に並んで歩けないほどです。

そして沖田畷についた島津、有馬連合軍は「大木戸」と呼ばれる簡易的な門を沖田畷の出口に取り付け、沖田畷の出入りを制限させました。

またこの沖田畷の近くの森岳城にも柵を設け、万全の状態で隆信を待ち受けました。

相見える龍造寺隆信と島津家久

相見える龍造寺隆信と島津家久

このまさに「天然の要害」と呼べるこの地と、島津の得意戦法「釣り野伏」の2つの切り札を使って龍造寺を翻弄することになるのです。

沖田畷の戦い

龍造寺の進軍

隆信は、そんな島津の作戦を知らず沖田畷を三手に分けて進軍させていきます。

鍋島信生隊は山道を

隆信の息子である江上家種後藤家信隊は海岸沿いを

そして隆信は中央の畷を進むことが決まりました。

山道を進む鍋島信生と海岸を進む江上家種、後藤家信と沖田畷を進む龍造寺隆信

山道を進む鍋島信生と海岸を進む江上家種、後藤家信と沖田畷を進む龍造寺隆信

当初は隆信が山道を進むという話もありましたが、隆信は敵軍を侮っており、自ら敵軍の中央で蹴散らそうと思ったのか、中央の道を進むことになりました。

進路の変更が隆信の命運を分けることになります…

連合軍の布陣

一方、島津家久と家臣の新納忠元は伏兵として後方に潜んでいました。

また、有馬軍の水軍も横撃の構えをとっています。

決戦の開始~釣り野伏~

 そして戦いが始まりました。

一番始めに交戦したのは中央でした。

島津軍と龍造寺軍の先鋒が戦いを始めました。

沖田畷で戦闘が始まる

沖田畷で戦闘が始まる

が、島津の先鋒がすぐに撤退を始めました。

退却する島津軍先鋒

退却する島津軍先鋒

これは島津が苦戦を強いられたわけではなく、

敵軍をおびき寄せるための作戦だったのです!

この作戦を知らない龍造寺軍はもちろん追撃し、沖田畷の奥深くまで島津軍を追ってきました。

ですが大木戸の所まで来ると、

突如として島津軍が反転し、鉄砲と弓を一斉に撃ちかけたのです。

反転、反撃をする島津軍先鋒

反転、反撃をする島津軍先鋒

しかも先程も説明した通り、沖田畷は大人数が通れない場所。

龍造寺軍は大軍だったため、

すぐに渋滞の状態になり、なかなか進軍できませんでした。

そこに鉄砲玉、矢が島津軍から降り注いできます。

またこうした龍造寺軍の苦戦を知った隆信は、前線の様子を使者に探らせました。

この使者は、前線の様子だけ確認すればいいものを、何故か「命を惜しまず攻撃せよ」と命令していないことまで、前線で戦っていた武将に言ったのでした。

この命令によって龍造寺軍は沼地を進むという無茶な進軍をして攻撃を試みました。

また隆信本軍も沼地に兵を移動させました。

沼地に兵を進める龍造寺隆信

沼地に兵を進める龍造寺隆信

島津の罠

しかしそこには家久と忠元の伏兵がいたのでした。

島津家久と新納忠元の伏兵が姿を現す

島津家久と新納忠元の伏兵が姿を現す

この合わせて2千の伏兵が鉄砲を発射したことによって、

龍造寺軍では死傷者が続出し、更なる混乱を生みます。

これが「釣り野伏」という島津家に伝わる作戦だったのです。

海岸の戦いと信生の奮戦

その頃、海岸も両軍は戦っていました。

森岳城で戦う江上家種、後藤家信と有馬晴信

森岳城で戦う江上家種、後藤家信と有馬晴信

こちらの戦線も有馬軍の船からの鉄砲発射で連合軍が優勢になっており、

江上、後藤隊は敗走を始めました。

敗走を始める江上家種と後藤家信

敗走を始める江上家種と後藤家信

この敗走によって有馬軍らは隆信本軍までの道が開いたことになり、隆信本軍に攻撃を始めました。

その一方、龍造寺軍の劣勢のなかで唯一善戦していた隊がありました。

鍋島信生隊です。

信生隊は猿渡信光隊と丸尾城で戦い、信光の息子を討ち取るなど唯一戦果を挙げていました。

丸尾城で戦う鍋島信生と猿渡信光

丸尾城で戦う鍋島信生と猿渡信光

しかし局地的に優勢でも全体では劣勢。

信生の奮戦も虚しく、龍造寺軍では敗北の色が濃くなっていきます…

大将の戦死

隆信本軍と有馬軍との戦いに話を戻しましょう。

隆信本軍は沼地に兵を置いていたため身動きが取りづらく兵がどんどん討たれていきました。

そして隆信も逃げることができず、有馬軍にいた島津義久の家臣、川上忠堅(有馬軍の中にと島津軍も入っていたため)に

龍造寺軍総大将、龍造寺隆信は討たれてしまうことになるのです。

隆信は抵抗もできず、龍造寺家を盛り立てた実力者としては悲しい最期だったと言われています。

混乱と敗走

大将を失った軍というのは弱いもので、善戦している信生隊まで総崩れになりましたが、龍造寺軍は全軍で撤退を何とか成功させました。

龍造寺隆信が討たれ総崩れとなる龍造寺軍

龍造寺隆信が討たれ総崩れとなる龍造寺軍

その後

その後、龍造寺家の勢力は明らかな衰えを見せ、それからは

家臣の信生が実権を握って龍造寺家を動かすことになりました。

また、島津が大勝利を収めたことによって、九州は島津家がほぼ統一を果たすことになります。

まとめ

  • 九州では龍造寺と島津が覇権を懸けて争っていた
  • 隆信の油断が自らの命を奪い敗北を作った
  • この後龍造寺が衰退し島津が九州統一を果たす

ということで「沖田畷の戦い」の解説を終了します!

お付き合いいただきありがとうございました( T∀T)