戦の図鑑

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岩屋城の戦いとは?城兵763名全員討死の籠城戦をわかりやすく図解解説!

 今回は、「岩屋城の戦い」について解説していきたいと思います。

この岩屋城の戦いでは、九州制覇を目前にしている島津義久の家臣島津忠長と、かつての勢いを失った大友宗麟の家臣高橋紹運とが戦いました。

大友軍の大将である高橋紹運は、この戦いで凄まじい籠城戦を展開していくことになります。

この記事でわかること
  • 岩屋城の戦いが起こったきっかけ
  • どのように岩屋城の戦いが行われたのか
  • どのように岩屋城の戦いが終わったのか

当時の情勢

まずは、戦国時代の九州の情勢について見ていきましょう。

当時、九州地方では

  • 龍造寺家
  • 大友家
  • 島津家

という3つの大きな勢力が争いあっていました。

九州三国志

九州三国志

しかしその内の1つ龍造寺家は、「沖田畷の戦い」で島津家に撃破されリーダーである龍造寺隆信を失ってしまいます。

そのため龍造寺家は力を失い、島津家に降参することになります。

そしてもう1つの勢力大友家も「耳川の戦い」でまたもや島津家に撃破され多くの兵を失ってしまいました。

その時点で九州最大の勢力が島津家だということが確定し、当主の義久は九州を統一しようと力の衰えた大友家を九州から追い出すことを始めるのです。

岩屋城の戦いまでのいきさつ

大友宗麟、天下人に助けを求める

以前の勢いを無くした大友宗麟は、自分の力だけでは島津家に太刀打ちできないと考え、豊臣秀吉に臣従し援軍を要請します。

秀吉はこの時、日本の大部分を支配しており、九州も支配しようと考えていたためこの要請を承諾し、弟の秀長を大将として援軍を送りました。

大友宗麟の救援に向かう豊臣秀長

大友宗麟の救援に向かう豊臣秀長

それは自分に下った大友家に九州を攻めさせれば、その領土が秀吉の勢力下になるから。援軍の数は約10万人という大大軍でした。

島津義久の筑前侵攻

秀吉のこの動きを知った義久は、援軍が来る前にさっさと大友家を倒そうと考えます。

そして20000~50000の兵を集め、島津忠長に筑前国の最前線にある大友方の城、岩屋城に向けて出撃を命じました。

岩屋城に進軍する島津忠長

岩屋城に進軍する島津忠長

岩屋城の戦い

勧告に応じず

岩屋城に着いた島津軍の大将島津忠長は、手始めに岩屋城を守る高橋紹運降伏勧告を出します。

高橋紹運に降伏勧告を出す島津忠長

高橋紹運に降伏勧告を出す島津忠長

しかし、紹運は秀吉の援軍が来るまでの時間稼ぎのため勧告に応じませんでした。

この後も敵味方合わせて合計で5回も城を出るよう勧告しましたが、紹運は1個も応じることはありませんでした。

高橋紹運の奮戦

勧告を断られた忠長は、ついに攻撃を始めます。

しかし紹運や城兵は死を覚悟して戦っていたため、島津軍を何度も撃退します。

しかも島津軍は寄せ集めだったので、戦いへの本気度が違ったんです。

最期

しかし紹運達の優勢も長くは続きませんでした。

半月ほどすると、忠長は自ら指揮をして岩屋城に総攻撃を始めます。

島津軍は大きな被害を出しましたが、その分城兵も多くが討死し紹運を追い詰めることになります。

そして、これ以上の抵抗が無理だと悟った紹運は壮絶な割腹をして自害し、岩屋城はついに陥落したのでした。

生き残った城兵は誰一人としていなかったそう。

なぜ大将が最前線に出たのか

ここで気になるのは「なぜ筑前を守る総大将がわざわざ最前線に出て無謀な戦に挑んだのか」。

それは初めに岩屋城を攻めてもらうため。

後方の立花山城には紹運の長男立花宗茂がいて、宝満城には紹運の次男高橋統増や女子供がいたので、そこを攻めて欲しくなかったのです。

立花山城にいる立花宗茂、宝満にいる高橋統増

立花山城にいる立花宗茂、宝満にいる高橋統増

その後

こうして何とか岩屋城を攻め落とした島津軍でしたが、島津軍での被害も多く、次に攻めた立花山城を上手く攻めることができませんでした。

その間に秀吉からの援軍が届き、島津軍は撤退をしていくことになります。

まとめ

  • 九州統一のため島津家が筑前に侵攻し岩屋城の戦いが起こった
  • 半月籠城するも城兵は全滅した
  • 岩屋城の戦いが島津軍の侵攻を止めることに繋がった

最後まで読んでいただきありがとうございました。