今回は「立花山城の戦い」を解説していきたいと思います。
この立花山城の戦いでは、島津忠長と立花宗茂が戦いました。
この立花山城の戦いで立花宗茂は、勢いの乗った島津軍の勢いを止め、筑前侵攻の戦局を変えていくことになります。
- 立花山城の戦いが起こったきっかけ
- どのように立花山城の戦いが行われたのか
- どのように立花山城の戦いが終わったのか
当時の情勢
まずは当時の情勢から軽く説明していきます。
戦国時代、九州では主に3つの勢力が九州統一を目指して争っていました(九州三国志)。
しかしこの頃になると、3つの勢力の内の1つ島津家が覇権を握るようになります。
そしてその島津家が衰えていた九州の勢力大友家に侵攻を開始することになりました。
こうして攻められることになった大友家も、当時日本を統一しかけていた豊臣秀吉に援軍を送ってもらって島津家に対抗していきます。
そしてこの時、大友家には豊臣家の援軍が来るまで島津軍の猛攻を食い止めることが求められていました。
立花山城の戦いまで
岩屋城の戦い
その島津軍は、大友方の城である岩屋城を攻めることになりました。
岩屋城を守る、高橋紹運は島津軍と死闘を繰り広げます。
が、結局紹運と城兵は全員討たれてしまい、岩屋城は落城することになりました(岩屋城の戦い)。
宝満城も落とし島津忠長の次の標的となる
多くの兵を失いながらも、何とか岩屋城を落とした島津軍の大将島津忠長。
その勢いに乗って宝満城を難なく落とすと、次に岩屋城の後方に控える立花山城に迫りました。
立花山城の戦い
降伏勧告を受け入れた?
立花山城に取りついた忠長は、城主の立花宗茂に向けて手始めに開城するよう勧告を出します。
そしてこの勧告を、宗茂達は受け入れると島津軍に対して申し出ました。
それを知った島津軍は攻撃をやめ、開城を待ちました。
しかし、開城するというのは嘘。宗茂の罠だったのです。
時間稼ぎに成功
こうして宗茂が時間稼ぎをしている間に、待ちに待った豊臣家の援軍の一部(毛利軍)
が九州に上陸したとの知らせが入ります。
宗茂はこれを待っていたのです。
島津軍の撤退、追撃
敵の援軍が近くまで来たことを知った忠長は、仕方なく一旦撤退し態勢を立て直すことに決めました。
しかし、この動きも宗茂はお見通し。
宗茂は島津軍が撤退すると、すぐに城から出て島津軍を追撃。島津家の家臣を討ち取りました。
岩屋城奪還
勢いに乗った宗茂は、さらに父の高橋紹運が守りきれなかった岩屋城や宝満城までも奪還し、宗茂の勝利で立花山城の戦いは終わることになりました。
その後
この後、援軍が完全に上陸を完了させます。
この戦いによって、大友家はひとまず滅亡を免れました。
そして、ここからは豊臣VS島津に戦いが発展していくことになるのです。
まとめ
- 岩屋城の戦いに勝利した島津軍が立花山城に進軍したのが戦いが始まったきっかけ
- 宗茂による時間稼ぎによって立花山城の陥落を防いだ
- その後は豊臣VS島津の構図に変わっていく
最後まで読んでいただきありがとうございました。