戦の図鑑

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石垣原の戦いとは?黒田官兵衛の野望をわかりやすく図解解説!

 今回は、「石垣原の戦い」について解説していきたいと思います。

この石垣原の戦いは、黒田官兵衛大友義統が戦いました。

この石垣原の戦いによって官兵衛は、天下統一への足がかりをつかみますが、それから領土を拡大することは叶いませんでした。

この記事でわかること
  • 石垣原の戦いが始まるまで
  • 石垣原の戦いの経過
  • 石垣原の戦いのその後

当時の情勢

この当時、全国で大きく二つの勢力に別れていました。

それは、徳川家康をリーダーとする東軍と、

石田三成を(実質)リーダーとする西軍でした。

全国のあらゆる勢力は、東軍と西軍どちらにつくのか分かれることになったのですが、どちらにもつかないものもいました。

 その一人が名軍師、黒田官兵衛

黒田官兵衛

黒田官兵衛/出典Wikipedia

諸説ありますが、官兵衛は九州を統一してから、関ヶ原の戦いで勝った勢力と勝負をつけようと考えたのです。

石垣原の戦いまで

残った人々をかき集める

九州を平定しようと考えた官兵衛は、まず兵を集めようとします。

しかし、自領にはほとんど兵がいませんでした。

それは息子の黒田長政が東軍についており、黒田家の兵をほとんど引き連れていったから。

それを知った官兵衛は、蓄えておいた金を惜しみなく使い、留守にしていた兵や浪人や商人、百姓をかき集めて何とか9000人の軍を作ることに成功します。

官兵衛は、そうした兵を率いて豊後国に侵攻を始めたのです。

大友家の復興運動

一方で、この機に乗じてお家を復興しようと考えた者がいました。

それが大友宗麟の子、大友義統です。

義統はもともと豊後国を支配していたのですが、朝鮮との戦いで失敗してしまい家を取り潰されていました。

こうした経歴を持つ義統が、九州に残った旧家臣を呼び集め、その兵力で豊後国へ侵攻を始めたのです。

義統は豊後国に着くと、来たるべき黒田軍に備えて立石という場所に布陣をしました。

立石に布陣する大友義統

立石に布陣する大友義統

杵築城攻防戦

さて、その呼び集められた旧家臣のうちの一人吉弘統幸は、100人ほどの兵を引き連れて杵築城を攻めました。

杵築城を攻める吉弘統幸

杵築城を攻める吉弘統幸

杵築城を守るのは細川忠興(東軍)の家臣、松井康之。(忠興と官兵衛は味方)

康之は統幸が攻めてきたことを知ると、伏兵を潜ませます。

そして杵築城を攻める義統に奇襲をかけ、大友軍は義統の元へ撤退していきました。

松井康之の奇襲を受け撤退する吉弘統幸

松井康之の奇襲を受け撤退する吉弘統幸

こうして石垣原の戦い前哨戦は、大友軍の負けに終わったのです。

官兵衛、石垣原に到着

その一方、官兵衛は義統が布陣したことを知ると母里太兵衛井上之房に先に進軍を開始させます。

そして、杵築城を守りきった康之の軍勢と合流し、安岐城から打って出た熊谷直盛を蹴散らします。

松井康之と合流し熊谷直盛と合流する母里太兵衛と井上之房

松井康之と合流し熊谷直盛と合流する母里太兵衛と井上之房

その後、康之は実相寺山に、黒田軍(官兵衛は不在)は麓に布陣し、両軍が布陣を完了させました。

布陣を完了させる両軍

布陣を完了させる両軍

石垣原の戦い

まさかの釣り野伏

そして黒田軍の先鋒である太兵衛と康之が大友軍先鋒となった統幸に激突し、石垣原の戦いが始まりました。

石垣原の戦い開戦

石垣原の戦い開戦

しばらくすると、劣勢になったとでも言うように統幸が本陣まで退いていきます。(写真)

太兵衛と康之はもちろん統幸を追撃したのですが、そこには宗像鎮統伏兵として潜んでいました。

鎮統は追撃してきた太兵衛と康之を見るなり、奇襲を仕掛けます!

そして統幸も同時に進行方向を反転させ、太兵衛と康之に向けて反撃を開始しました。

反撃を開始する吉弘統幸と宗像鎮統

反撃を開始する吉弘統幸と宗像鎮統

これに先鋒部隊は耐えられず、多くの被害を出して敗走していきます。

敗走していく母里太兵衛と松井康之

敗走していく母里太兵衛と松井康之

実はこれは島津家特有の戦法「釣り野伏」でした。

大友家は、過去に島津家にこの釣り野伏で苦しめられたので、この戦法の強さを十二分に知っていたのです。

大友軍は、さらに相手の被害を大きくさせようと先鋒部隊を追いましたが、これが勝敗を分けることになりました。

深追いしすぎて形勢逆転

大友軍は敗走していく黒田軍を追い、その勢いで康之や後方の之房にまで攻撃します。

深追いする大友軍

深追いする大友軍

しかし、大友軍2000に対して黒田軍は約10000

この兵力差の壁を乗り越える程の力は大友軍にはありませんでした。

大友軍は奮戦しますが、統幸や鎮統などの大将格の武将が討たれてしまったことで、大友軍は総崩れ。黒田軍の勝利が確定したのです。

吉弘統幸や宗像鎮統が討たれ総崩れとなる大友軍

吉弘統幸や宗像鎮統が討たれ総崩れとなる大友軍

その後

その後官兵衛が到着し、九州平定に向けて豊後国への侵攻を再開します。

そして、

  • 安岐城
  • 富来城
  • 香春岳城
  • 小倉城

を落とし、ついに豊後国を併合してしまいました。

豊後国

豊後国

この時官兵衛は、攻めた城を守っている兵もどんどん軍に加えていったので、黒田軍は数千人増えたと言われているそう。

しかし、ここで官兵衛の元に残念なニュースが届きます。

関ヶ原の戦いがわずか1日で決着がつき、徳川家康が勝利してしまうのです。

官兵衛は、名目上東軍として九州平定を目指していたので、決着がついても攻め続けていては家康に野心があると疑われるのです。

そして官兵衛に停戦命令が下されると、官兵衛は仕方なく侵攻を止めたのでした。

しかし、関ヶ原の戦いは息子の長政が活躍したので、戦後は領地を増やされることになります。

まとめ

  • 官兵衛は九州平定のために豊後国へ侵攻したと言われる
  • 大友軍は深追いしたため敗北した
  • 官兵衛は連戦連勝するも停戦命令が下り平定を諦める

最後まで読んでいただきありがとうございました。