「第一次月山富田城の戦い」は中国地方の大名トップ2、尼子家と大内家による頂上決戦。
1年4ヶ月も続いたこの大戦は尼子家が制することになり、敗者の大内家は衰えていきます。
また大内家の部下、毛利家が大内家に代わって勢力を伸ばすことにもなりました。
第一次月山富田城の戦いまで
吉田郡山城の戦いで尼子家衰退
この戦いの少し前、中国地方では尼子晴久率いる尼子家と、大内義隆率いる大内家が覇権を争っていました。
そのため、晴久は

と、毛利家の本拠地の吉田郡山城を攻めます。
「吉田郡山城の戦い」と呼ばれたこの戦いは、尼子家が圧倒的な兵力を持っていたのにも関わらず大敗します。
そのせいで、尼子家に味方していた領主たちに

と、次々に裏切られてしまいました。
尼子経久の死
尼子家の不幸はまだまだ続きます。
晴久の祖父であり「中国の三大謀将」の1人、尼子経久が病死してしまうのです。
家臣から慕われていた尼子家の柱、経久の死により、尼子家はさらにまとまりを欠くことになりました。
大内義隆の出陣
さて、この尼子家のピンチを義隆は見逃しませんでした。
大内家に味方する領主に

という内容のお願いをされた義隆は

と、出雲国への遠征を決めました。
この時、大内家の文官は遠征に反対しましたが、武官が遠征を主張したため遠征が決定しています。
第一次月山富田城の戦い
赤穴城の攻略に手間取る
遠征を決めた義隆は
- 陶晴賢(重臣)
- 大内晴持(後継者)
- 毛利元就(有力領主)
などの武将を総結集させ、45000の大軍で出雲国へ侵攻します。
そして、初めの標的となったのは赤穴城。
激戦の末、大内軍は城主の赤穴光清を討ち、赤穴城を開城させることに成功します。
ですが落城までに2ヶ月近くもかかってしまい、月山富田城を攻撃した時には既に、開戦から1年近くが経過していました。
ようやく月山富田城を攻撃するも…
赤穴城を落とし、ようやく月山富田城を包囲した大内軍でしたが、尼子軍の抵抗は激しいものでした。
15000(大内家の3分の1)の兵力で不利に立たされている尼子軍は

と考え、大内家の糧道(食糧を運ぶ道)を襲撃。兵糧を送らせないよう邪魔しました。
そのおかげか、次第に尼子家を裏切った大内家の武将たちから

という声が出てきます。
尼子家に戻ることにした武将たちは、「城を攻めるフリをして近づき、そのまま入城する」という大胆な技を使って寝返りに成功します。
この事件によって、大内軍の士気はガタ落ち。
撤退せざるを得ない状況になってしまいました。
大内軍の撤退
こうして撤退することにした大内軍でしたが

と義隆と晴持で別々の道を通って撤退することにします。
しかし、これが悲劇を産んでしまうことになりました。
義隆は無事に周防国に帰れたのですが、海路を進んだ晴持の船が転倒し、晴持が溺れ死んでしまったのです。
また、大内軍の最後尾にいた毛利軍は、尼子軍の激しい追撃を食らいました。
その激しさというのは、「元就の嫡男、毛利隆元が死を覚悟し、家臣が身代わりになって命拾いをした」というエピソードがあるほど。
という危機もありましたが、結局は毛利軍も撤退を成功させました。
その後
この戦いによって後継者の晴持を失った義隆は、この後政治に対する興味を失っていき、大内家が衰えていくことになります。
また尼子家は「吉田郡山城の戦い」以前の勢力を取り戻し、尼子家全盛期を創り上げていくことになります。
【参考】