戦の図鑑

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第一次月山富田城の戦いとは?尼子家滅亡の危機をわかりやすく解説!【図解】

第一次月山富田城の戦い

 「第一次月山富田城の戦い」は中国地方の大名トップ2、尼子家と大内家による頂上決戦。

1年4ヶ月も続いたこの大戦は尼子家が制することになり、敗者の大内家は衰えていきます。

また大内家の部下、毛利家が大内家に代わって勢力を伸ばすことにもなりました。

 第一次月山富田城の戦いまで

吉田郡山城の戦いで尼子家衰退

この戦いの少し前、中国地方では尼子晴久率いる尼子家と、大内義隆率いる大内家が覇権を争っていました。

中国地方で争う大内義隆と尼子晴久

そのため、晴久は

尼子晴久
大内家の手下、毛利家を潰して大内家を弱体化させよう
 

と、毛利家の本拠地の吉田郡山城を攻めます。

吉田郡山城の戦い」と呼ばれたこの戦いは、尼子家が圧倒的な兵力を持っていたのにも関わらず大敗します。

吉田郡山城の戦いで大敗する尼子晴久

そのせいで、尼子家に味方していた領主たちに

領主
尼子晴久は頼りないから大内、毛利家側につこう
 

 と、次々に裏切られてしまいました。

尼子経久の死

尼子家の不幸はまだまだ続きます。

晴久の祖父であり「中国の三大謀将」の1人、尼子経久が病死してしまうのです。

尼子経久

尼子経久/出典Wikipedia

家臣から慕われていた尼子家の柱、経久の死により、尼子家はさらにまとまりを欠くことになりました。

大内義隆の出陣

さて、この尼子家のピンチを義隆は見逃しませんでした。

大内家に味方する領主に

領主
今のうちに尼子家を倒してください
 

 という内容のお願いをされた義隆は

わかった、ならば私自ら出陣しよう
 
大内義隆

と、出雲国への遠征を決めました。

この時、大内家の文官は遠征に反対しましたが、武官が遠征を主張したため遠征が決定しています。

第一次月山富田城の戦い

赤穴城の攻略に手間取る

遠征を決めた義隆は

  • 陶晴賢(重臣)
  • 大内晴持(後継者)
  • 毛利元就(有力領主)

などの武将を総結集させ、45000の大軍で出雲国へ侵攻します。

出雲国へ侵攻する大内義隆

そして、初めの標的となったのは赤穴城。

激戦の末、大内軍は城主の赤穴光清を討ち、赤穴城を開城させることに成功します。

赤穴城を開城させる大内義隆

ですが落城までに2ヶ月近くもかかってしまい、月山富田城を攻撃した時には既に、開戦から1年近くが経過していました。

ようやく月山富田城を攻撃するも…

赤穴城を落とし、ようやく月山富田城を包囲した大内軍でしたが、尼子軍の抵抗は激しいものでした。

月山富田城で大内義隆に抵抗する尼子晴久

15000(大内家の3分の1)の兵力で不利に立たされている尼子軍は

尼子晴久
正々堂々と勝負はせず、ゲリラ戦をしよう
 

 と考え、大内家の糧道(食糧を運ぶ道)を襲撃。兵糧を送らせないよう邪魔しました。

そのおかげか、次第に尼子家を裏切った大内家の武将たちから

大内家の武将
やっぱり尼子家に戻った方がいいのでは?
 

 という声が出てきます。

尼子家に戻ることにした武将たちは、「城を攻めるフリをして近づき、そのまま入城する」という大胆な技を使って寝返りに成功します。

この事件によって、大内軍の士気はガタ落ち。

撤退せざるを得ない状況になってしまいました。

大内軍の撤退

こうして撤退することにした大内軍でしたが

大内義隆
万が一何かあった時のために、二手に別れて撤退しよう
 

 と義隆と晴持で別々の道を通って撤退することにします。

しかし、これが悲劇を産んでしまうことになりました。

義隆は無事に周防国に帰れたのですが、海路を進んだ晴持の船が転倒し、晴持が溺れ死んでしまったのです。

撤退を成功させる大内義隆と撤退に失敗し溺死する大内晴持

また、大内軍の最後尾にいた毛利軍は、尼子軍の激しい追撃を食らいました。

その激しさというのは、「元就の嫡男、毛利隆元が死を覚悟し、家臣が身代わりになって命拾いをした」というエピソードがあるほど。

という危機もありましたが、結局は毛利軍も撤退を成功させました。

その後

この戦いによって後継者の晴持を失った義隆は、この後政治に対する興味を失っていき、大内家が衰えていくことになります。

また尼子家は「吉田郡山城の戦い」以前の勢力を取り戻し、尼子家全盛期を創り上げていくことになります。

【参考】

月山富田城の戦い - Wikipedia

赤穴氏 - Wikipedia