戦の図鑑

20:00に不定期更新しています。

第二次月山富田城の戦いとは?尼子家滅亡の一戦をわかりやすく解説!【図解】

第二次月山富田城の戦い

 「第二次月山富田城の戦い」は、大内家に代わって勢力を伸ばした毛利家と、既に衰えていた尼子家との最終決戦。

この戦いによって、尼子家は事実上滅亡し(後に復興)、勝者の毛利家は「中国地方の覇者」の座を手にすることになりました。

第二次月山富田城の戦いまで

尼子家当主、尼子晴久の死

尼子家は「第一次月山富田城の戦い」に勝利し、全盛期を迎えていたのですが、ここで当主の尼子晴久が47才という若さで病死してしまいます。

尼子晴久

尼子晴久/出典Wikipedia

そこをチャンスと捉えたのが毛利元就

元就はかつて大内家の支配下にありましたが、「大寧寺の変」という大内家の仲間割れを上手く利用し、大内家を滅ぼすことに成功していました。

このようにして勢力を拡大した元就は、晴久の死を知るなり

毛利元就
この機に乗じて石見銀山を奪ってやろう
 

と考え「雲芸和議」という和議を結び、石見銀山を奪うことに成功します。

雲芸和議によって石見銀山を奪取する毛利元就

また尼子側の武将たちは、この「雲芸和議」での尼子家の失態を知り

尼子家の武将
自分の領地を取られる尼子家は頼りない
 

 と、多くが毛利側に寝返ってしまいました。

毛利元就の出陣

そんな中、ついに元就が尼子家を滅ぼすべく出陣します。

月山富田城に向けて出陣する毛利元就と吉川元春と小早川隆景

その人員は

  • 毛利元就
  • 毛利隆元(元就の長男)
  • 吉川元春(元就の次男)
  • 小早川隆景(元就の三男)

を中心とした30000の大軍勢。

ですがこの内の隆元は、九州を警戒するため帰還しています。

元就率いる毛利軍は、次々と尼子側の城を落としていきましたが、白鹿城はしぶとく抵抗を続けていました。

毛利元就に対して抵抗を続ける白鹿城

白鹿城は月山富田城を落とす上でで必要不可欠な城。

落城させずに、見て見ぬふりをするわけにはいきませんでした。

白鹿城の戦い

落とさなければいけない理由は、この白鹿城と月山富田城で連絡が取れるから。

白鹿城から月山富田城に兵糧を送り込むことが可能

要は、月山富田城を包囲したとしても白鹿城から兵糧を運び込める、だから白鹿城を占領しなくてはいけない、ということです。

もちろん、白鹿城の重要さを尼子側も分かっています。

そのため、白鹿城にはあらかじめ尼子家から援軍を送っていました。

だから白鹿城はなかなか落ちないということですね。

白鹿城の堅さに舌を巻いた元就は、四方八方に軍を配置し完全包囲するなど徹底ぶりを見せます。

しかし以外にも尼子軍は粘り、その後も毛利軍と尼子軍は1年弱にも攻防を続けます。

そうなると、次第に尼子軍が不利になっていきました。

そして援軍の尼子倫久が毛利軍に敗れたことで勝敗が決定的となり、ついに白鹿城は降伏しました。

救援に失敗する尼子倫久と降伏する白鹿城

後継者、毛利隆元の急死

一方白鹿城が落城する2ヶ月ほど前、九州に行っていた隆元は九州の大名大友宗麟と和議を結ぶと、元就の元へと向かっていました。

しかし、その道中で家臣から食事のもてなしを受けた翌日に急死、というなんとも怪しい死に方をしてしまいます。

急死の報せを知った元就は、あえて悲しさを隠し

毛利元就
隆元への追善は尼子氏の撃滅のほかになし(尼子家を倒すことが隆元の弔いになる)
 

 と兵に語り士気を上げたと言われています。

因みに、隆元をもてなした和智誠春などは後に殺されています。

第二次月山富田城の戦い

尼子軍の抵抗で一時撤退

隆元の死、というような悲報もあったものの、その後も順調に城を落としていった元就は、ついに月山富田城に総攻撃を始めます。

月山富田城に総攻撃を始める毛利元就

が、尼子家にとって絶体絶命の戦だっただけに、尼子軍の士気は異常なほど高い状態。

予想外の奮戦に攻めあぐねた毛利軍は、攻撃を中止。

以前作っていた洗合城に一時撤退を決めました。

洗合城に撤退する毛利元就

持久戦に持ち込む

その5ヶ月後、元就は勝てる算段がついたのか再び月山富田城の包囲を始めました。

洗合城から再び月山富田城の包囲を始める毛利元就

因みにこの包囲戦中、毛利家の品川将員が尼子家の山中鹿之介に一騎討ちを挑み、鹿之介が将員を討ち取っています。

この結果、尼子軍の士気は上がりますが、毛利軍は兵糧攻めをしてジリジリと苦しめたため、次第に尼子軍の中から降伏者が現れました。

しかし、元就が降伏者に対して

毛利元就
我々は降伏することをを認めない
 

 としたため、降伏してきた者は次々と処刑されてしまいます。

一見ひどい仕打ちにも見えますが、これは元就の策略。

毛利元就
尼子軍を降伏させずに閉じ込めて、城の兵糧を早く消費させよう
 

 という狙いがありました。

その思惑通り、その後降伏する者はいなくなったので、兵糧が余計に早く消費されていくことになります。

よって城内の兵糧が尽きていき、尼子家は降伏を考えるようになっていきます。

月山富田城の開城

その後も尼子家は籠城を続けますが、冬になると兵糧が完全に底を尽き、重臣さえも続々と降伏をしていきました。

そのため、尼子家当主の尼子義久は

尼子義久
これ以上の抵抗は無駄だから、流石にもう降伏しよう
 

 と毛利家に対して降伏し「第二次月山富田城の戦い」が終結することになりました。

月山富田城で降伏する尼子義久

この時、最後まで籠城していた兵数は10000→300にまで減っていたと言われています。

その後

この後、義久たち尼子一族は命を助けられましたが幽閉され、実質上尼子家は滅亡することになりました。

毛利家はこの戦い「中国地方の覇者」となり、それから九州や四国地方にまで勢力を拡大していくことになります。

【参考】

月山富田城の戦い - Wikipedia

毛利隆元 - Wikipedia

雲芸和議 - Wikipedia

荒隈城 - Wikipedia

白鹿城の戦い - Wikipedia

山中幸盛・品川将員の一騎討ち - Wikipedia