「永禄の変」とは、足利13代将軍である足利義輝が、三好家の三好義継や三好三人衆に暗殺された事件。
この事件により三好家は、一時は将軍家を手中に収めることに成功しますが、少々不安の残る結果となりました。
永禄の変まで
三好家の台頭
三好家はもともと細川家の分家の家臣、という立場で室町時代にはあまり力を持っていませんでした。
ですが、「永正の錯乱」と呼ばれる細川家の後継者争いに、三好家の主君の細川澄元が参加します。
それによって、三好家も細川家の内部争いに参加し、三好家は力をつけていきました。
また結果として、澄元の家系が細川家の本家を継ぐことになったので、三好家は「分家の重臣」から「本家の家臣」へと変貌を遂げたのです。
三好家vs細川家
ですが、「永正の錯乱」に勝利したあと、三好家に悲劇が起きます。
澄元の息子である細川晴元と、三好家当主の三好元長が対立してしまうのです。
仕える将軍を変えた晴元は、元長と意見が対立。
すると元長は、晴元の家臣を攻撃し始めたので


と、晴元は本願寺の証如に一向一揆を起こさせ、手を汚さずに元長を討ったのです。
当主を失った三好家は、息子の三好長慶が新たに当主となりますが、長慶はこの時わずか10歳。

となった長慶は、幼かったこともあり、細川家への帰参が許されました。
しかしそれから16年後、成長した長慶は再び細川家と対立します。
今度は、重臣の三好政長を殺されたこと皮切りに細川家が不利に。
将軍の足利義輝を担いだ晴元は、親戚の六角定頼が治める近江国へ逃げていきました。
親政を始める足利義輝
それから長慶と義輝は和睦と対立を繰り返し、結局は六角家の仲介によって和睦が成立します。
ここから三好家に陰りが見え始めました。
なんと
- 三好義興(長慶の子)…病死
- 十河一存(長慶の弟)…病死
- 三好実休(長慶の弟)…久米田の戦いで戦死
- 安宅冬康(長慶の弟)…暗殺
※久米田の戦いについてはこちらの記事をご覧下さい。
といった悲劇が、わずか3年間の間に立て続きで起こったのです。
しかもこの1月後に長慶自身も病死、三好家は確実に衰退してきていました。
一方、義輝は

と、各地で起こっている戦争の停戦命令を出したり、様々な大名に官位を与えたりしていました。
また、政所執事(財政、領地を管理するトップ)の伊勢貞孝が長慶と対立した時には、貞孝を攻撃し敗死させるなど、将軍としての権威を取り戻しつつありました。
しかし

と考えていた三好家にとっては、自ら政治を行う義輝は邪魔な存在。
その結果、三好家によって義輝の暗殺が企てられることになります。
永禄の変
足利義輝の奮戦
三好軍が御所を包囲する前日、三好家が暗殺を企てていることを知った義輝は



と1度は将軍御所を逃げたものの、家臣の説得により覚悟を決めて御所に戻ります。
そしてその翌日、ついに三好軍が訴訟をするという名目で御所に押し寄せます。
その後、三好軍が御所に侵入したことにより戦闘が開始。
将軍側の抵抗は激しく、十数人の側近が三好軍数十人を討ち取るなど奮戦します。
中には1人で数十人討ち取った者もいるほど。
しかし、重臣の進士晴舎が

と自害します。
家臣もろとも自害
この晴舎の死を皮切りに、側近が次第に討たれていきました。
「剣豪将軍」と呼ばれた義輝自身も薙刀や刀を使い奮戦しますが、敵軍10000に対し味方はたかが数百人程度。
義輝もついに力尽き、敵軍の一斉に襲いかかられて討ち取られることになりました。(自害とも)
義輝が死んだ頃には側近の多くも自害or討ち取られており、将軍方はほぼ全滅という有様だったそう。
その後
弟、義昭が脱出
こうして将軍の暗殺に成功した三好軍は、義輝の兄弟も殺そうとします。
そのため末弟の周暠は殺害されましたが

と考えた三好家重鎮、松永久秀によって次弟の足利義昭(覚慶)は監禁するのみで生かされました。
その後、生き残った義輝の側近である一色藤長、細川藤孝によって義昭は脱出に成功。
各地の大名に協力を求め、将軍となるため着実に力をつけていきました。
三好三人衆の台頭
一方の三好家では、松永久秀と
- 三好長逸
- 三好宗渭
- 石成友道
という三好三人衆との対立が激しくなっていました。
この争いは、三人衆が当主の義継に

と迫り、久秀を失脚させることで三好家の権力を握ることに成功します。
こうして、三好家のトップに立った三好三人衆は、次に義昭の代わりとなる将軍候補を探します。
そこで見つかったのが、義輝の従弟で阿波国にいた足利義栄(義親)。
義栄を将軍にすることで合意した三人衆は、義栄を本州に呼び寄せ、義栄を将軍にするため働きかけることになります。(追記予定)
【参考】