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花倉の乱とは?今川義元が当主となった事件をわかりやすく解説!【図解】

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花倉の乱

 今回は「花倉の乱」について解説していきます。

この花倉の乱は、今川家の後継者を巡って栴岳承芳(後の今川義元)と玄広恵探が争った乱です。

この花倉の乱によって玄広恵探は自害、今川義元が今川家の新たな当主となりました。

花倉の乱まで

花倉の乱が始まるまでのいきさつを解説していきます。

今川家当主と後継候補が急死

花倉の乱が始まったきっかけは、今川氏輝の急死でした。

氏輝は今川家の現当主で、前当主の今川氏親から当主を譲られていた人物。

しかし幼い頃から病気がちだった氏輝は、わずか24才で病死してしまいます。

氏輝には息子がいなかったので、後継者は弟から選ばれることになりました。

そうなると最初に上がる候補は、最年長の弟で氏輝と同じ母の今川彦五郎

ですがその彦五郎も、なんと氏輝と同じ日に病死。

こんな偶然、なかなか信じられるものでは無いので

  • 疫病説
  • 毒殺説
  • 暗殺説

などの説もあります。

位が高い弟か、位が低い兄か

そうなると次に候補に上がるのは、最も位の高い氏親の妻、寿桂尼(氏輝の母)の子。

栴岳承芳、後の今川義元でした。

今川義元

今川義元/出典Wikipedia

母の寿桂尼や太原雪斎などの家臣に推された承芳は、還俗(僧侶の身分を捨てること)し、今川義元と名乗ります。

この名乗りはいわば「当主になるための準備」で、これでいよいよ義元が当主になる……と思いきや、これに反対する者が現れました。

それが今川家の重臣、福島家です。

親族の玄広恵探を福島家が擁立

福島家は、甲斐国や遠江国の方面の外交、軍事面を支える重臣中の重臣。

そんな福島家がなぜ反対してきたかというと、義元の兄である玄広恵探の母が福島家の人物だったので

玄広恵探を当主に出来れば、親戚の我ら福島家が力を持つことが出来る

と考えたため。

そのため福島家は

義元様よりも、年上の玄広恵探様の方が当主にふさわしい

という理由で、恵探を当主に祭り上げることになりました。

花倉の乱

ここからは花倉の乱を解説していきます。

玄広恵探&福島家が挙兵

こうして恵探を当主とする福島家は、義元を倒すため久能城で挙兵します。

久能城で挙兵する玄広恵探と福島家

久能城で挙兵する玄広恵探と福島家

ちなみにこの時義元派の寿桂尼が、福島家に挙兵をしないように説得していますが、失敗しています。

挙兵した恵探と福島家は、今川家の本拠地である今川館へ攻め込みます。

今川館へ攻め込む玄広恵探と福島家

今川館へ攻め込む玄広恵探と福島家

が、今川館の守りが固く攻撃に失敗。

攻撃を諦めた恵探と福島家は、

  • 方ノ上城
  • 花倉城

を中心とする城に籠ってしまいました。

方ノ上城と花倉城に籠る玄広恵探と福島家

方ノ上城と花倉城に籠る玄広恵探と福島家

今川義元の反撃

攻撃に失敗した恵探と福島家が、城に籠ったことを知った義元は

これは反撃のチャンスだ

と考え、反撃を開始します。

しかも、関東の大大名である北条家が義元を支援したことで、義元の優勢が確実になります。

勢いに乗った義元方は、敵の籠る

  • 方ノ上城
  • 花倉城

を落とすことに成功しました。

方ノ上城と花倉城を落とす今川義元

方ノ上城と花倉城を落とす今川義元

玄広恵探の自害、反乱の終結

城を落とされた恵探は、仕方なく普門寺という場所へ逃げていきます。

しかし絶望した恵探は自害。

恵探が自害し、内乱が終わったことを知った義元は、正式に当主となったことを表明します。

こうして花倉の乱は、義元の勝利で幕を閉じたのでした。

その後

当主となった義元はその後、大大名の武田家や北条家と渡り合い、いずれ「三国同盟」という同盟を組むまでに成長していくことになります。

また福島家の一族はその後、北条家の元へ落ち延び、北条綱成として分家を興しています。

まとめ

  • 今川家当主と後継者の急死により花倉の乱が起こった
  • 北条家の援助などによって、花倉の乱は今川義元が勝利した
  • 花倉の乱によって玄広恵探は自害、義元は今川家当主となる

最後まで読んでいただきありがとうございました。