「本圀寺の変」は、将軍争いを勝ち抜き新たに将軍となった足利義昭が、敵対する三好三人衆に襲撃される事件。
この戦いが起きた時、義昭の支えとなる織田信長はおらず、義昭は「永禄の変」と同じピンチとなりますが、幕府軍の奮戦により撃退。
三好三人衆の勢力を衰えさせる結果となりました。
本圀寺の変まで
義昭vs義栄~織田信長vs三好三人衆
時は1566年、当時将軍だった足利義輝は

という方針だったため

と、将軍の権力を手中に収めたい三好三人衆と対立します。
そして義輝が邪魔になった三人衆は、ついに「永禄の変」で義輝を暗殺します。
そして次期将軍には、自分たちの言うことを聞く足利義栄を擁立。
将軍の力を手中に収めることに成功します。
しかし義輝の弟である足利義昭は、義栄の将軍就任に不満を持ちます。
そこで

と義昭が将軍になることを決意、さまざまな反三次の大名に協力を要請します。
そこで

と名乗りを上げたのが、織田信長でした。
これにより、信長は必然的に三好三人衆と敵対し、足利義栄=三好三人衆vs足利義昭=織田信長という構図が出来上がったのです。
信長の上洛戦
義昭を将軍にさせることを決めた信長は、すぐさま義栄=三好三人衆を排除すべく、上洛戦を開始します。
しかし1度目の上洛戦では、隣国の斎藤龍興が休戦の約束を破り、攻めてきたため失敗。
この龍興の妨害には、三人衆が裏で指示していたと言われています。
その後「稲葉山城の戦い」で斎藤家を滅ぼし、美濃国を手に入れた信長は、2度目の上洛戦に挑むことに。
この戦いは結果として勝利に終わり、負けた三人衆らは畿内から四国に撤退しました。
義昭の将軍宣下
このようにして義昭と信長は、自らの邪魔者を畿内から追い出されることに成功します。
しかもこの時義栄は病死しており、将軍の座は空位の状態。
ライバルの居なくなった義昭は、こうして将軍宣下を受け、念願の将軍に任命されたのでした。
本圀寺の変
信長の帰国の隙を着いて
義昭が将軍に就任したことを見届けた信長は、領国運営のため一旦岐阜城へと帰ります。
そして三人衆に抵抗してきた松永久秀も、協力してくれた信長にお礼を言うため、後を追うように岐阜へと向かいました。
となると、京都には信長や久秀といった義昭派の主戦力は居なくなります。
そこで動いたのが三好三人衆。

と考え挙兵した三人衆は、逃亡していた斎藤龍興を先鋒とし、義昭を倒すべく侵攻を開始したのです。
義昭の逃げ道を塞ぐ
挙兵した三人衆は、堺に上陸。家原城を落とすと、京都へと向かっていきました。
そして義昭を取り囲むように、将軍地蔵山城など御所周辺の拠点を燃やします。
これにより義昭は逃げ道を塞がれた格好となり、幕府は大ピンチを迎えます。
幕府軍の奮戦
そしてこの時、三好軍が突然攻めてきたため、幕府は兵力をほぼ用意できていませんでした。
そのため義昭を守る幕府軍は2000程しかおらず、三好軍の10000に比べ兵数不利だったため

との結論に至り、本圀寺にて防戦の構えを取ります。
そして本圀寺にて、幕府軍と三好軍との戦いが開始。
形勢は幕府軍不利でしたが奮戦し、三好軍の侵入を幾度も防ぐことに成功します。
ちなみにこの時、後に信長に仕える明智光秀がこの場におり、奮戦していたそう。
細川藤孝らの救援
このように幕府が奮戦を見せたことにより、三好軍では大きな犠牲を出します。
そしてその翌日、幕臣の細川藤孝を中心とする援軍三隊が到着。
この援軍が、三方向から一斉に三好軍を攻撃したため、戦局は大逆転。
敗北を確信した三好軍は撤退を開始しますが、幕府軍に追撃され合戦を行うことに。
そして桂川河畔で起こった合戦に敗れた三好軍は総崩れ。
三好軍は、数百から数千の戦死者を出して敗走していきました。
その後
その後、義昭の危機を知った信長は急いで本圀寺へ向かいます。
しかし信長が着いた頃には、本圀寺の変の決着はついていました。
そして

と考えた信長は、新たな将軍御所となる二条城を築城したのでした。
【参考】