「稲葉山城の戦い」は当時尾張国のみを支配下に置いていた織田信長と、かつての同盟相手だった斎藤家の当主、斎藤龍興との間に起こった戦。
この戦いにより、信長は龍興から美濃国を奪うことに成功。
全国への勢力拡大を加速させる結果となりました。
稲葉山城の戦いまで
同盟関係だった織田家と斎藤家
今回「稲葉山城の戦い」で対戦することになる織田家と斎藤家ですが、両家は20年ほど前から同盟関係にありました。
「加納口の戦い」などで戦いを繰り広げ、犬猿の仲だった両者でしたが、信長の父の織田信秀と龍興の祖父の斎藤道三が


と、互いの子供を結婚させることを条件に同盟を結んだのです。
この同盟によって斎藤家には平穏が訪れ、織田家は東の敵である今川&松平家に専念できるようになりました。
斎藤家の内乱で同盟決裂
しかし同盟を組んでからおよそ10年後、同盟の終わりが訪れます。
道三の息子である斎藤義龍が

という理由でクーデターを起こしたのです。
そのため斎藤家は、斎藤道三vs斎藤義龍と親子で戦うことになりました。
この内紛は「長良川の戦い」で多くを味方につけた義龍が勝利。
義龍は織田家と斎藤家の同盟に反対だったため、道三の死により同盟は決裂することになりました。
新加納の戦い
それからは、織田家と斎藤家はバチバチの状態に。
信長と息子の龍興(義龍は病死)は戦闘を繰り返すことになります。
その1つが「新加納の戦い」。
この戦いは「森部の戦い」や「十四条の戦い」で勝利した信長が、勢いに乗って東美濃にまで進撃し起こった戦。
織田軍5700に対し、斎藤軍は3500と斎藤家不利な状態でしたが、軍師竹中半兵衛の活躍により斎藤家が勝利。
勢いづいていた信長が押し戻される結果となり、両者は一進一退の攻防を見せていました。
家臣に本拠地を乗っ取られる
しかし「新加納の戦い」の後、立役者の半兵衛には不満がありました。
それは

ということ。
しかもこの時龍興は、重臣である西美濃三人衆や半兵衛を重用せず、政治をほとんど行わなくなっていました。
そのため半兵衛は、三人衆の1人である安藤守就と協力し、龍興の居城である稲葉山城の乗っ取りを決行します。
このクーデターは成功し、半兵衛たちはなんと16人で稲葉山城を奪い取ることになりました。
半兵衛は

という考えだったため、結局は龍興に稲葉山城を返します。
しかし裏を返せば「稲葉山城は簡単に奪えることが証明された」ということ。
この一件から斎藤家の脆さが垣間見え、家臣の裏切りが相次ぐことになりました。
河野島の戦い
とは言っても、斎藤家はまだまだ健在。
幕府による停戦命令を斎藤家が破ったことで、「河野島の戦い」が起こります。
この戦いは、洪水により織田軍で溺死者が続出。
その隙を着いて斎藤軍が攻撃を仕掛けたことにより、斎藤家が勝利しました。
稲葉山城の戦い
西美濃三人衆を寝返らせる
しかし先ほど説明したように、龍興はこの時ほとんど政治をせずにいました。
そのため斎藤家で力を持っていた西美濃三人衆が


と信長に裏切りを約束します。
それを聞いた信長は

と、稲葉山城へ攻めるため兵を挙げます。
落ち延びる龍興
一方の龍興は三人衆が裏切ることも、信長が攻めて来ていることも知りません。
そのため、織田軍が稲葉山城に着いた時

という状態だったそう。
その後、織田軍が包囲を始めると、三人衆が信長の下へ挨拶に行き、城に籠っている者は降伏します。
抵抗する術を無くした龍興は舟で逃げ、伊勢国の長島へ逃亡していきました。
その後
この「稲葉山城の戦い」により、信長は美濃国を支配下に置きます。
そして本拠地を稲葉山城に移し、稲葉山城の名前を岐阜城に変更。
岐阜城を新たな拠点として勢力拡大を進めていくことになります。
また、落ち延びた龍興は「長島一向一揆」、「本圀寺の戦い」、「六条合戦」、「野田城・福島城の戦い」に参加し、信長に反抗していくことになります。
【参考】