今回は、「加賀一向一揆」について解説していきます。
この一揆は、加賀の本願寺門徒によって起こりました。
約100年続いたこの一揆は、最後には織田信長の家臣、佐久間盛政によって鎮められます。
加賀一向一揆まで
守護大名の争いに絡んだ蓮如
この100年も続く一揆の起こったきっかけは、1つの内紛にありました。
この時加賀国を支配していた富樫家には、応仁の乱によって兄弟が敵対し、後継者を決めるため争っていたのです。
そして兄の富樫政親は、弟の富樫幸千代との争いに負け、加賀国を追い出されてしまいます。
しかし、当主の座を諦めきれない政親は、本願寺宗主の蓮如の力を借りることにしました。
頼まれた蓮如は、
ここで味方して戦いに勝ったら、保護してもらえて、加賀国での布教が許されるかもしれない
考え、富樫家の争いに介入することを決めます。
頼みを受けた蓮如は、門徒を率いて政親に味方し、見事幸千代を倒しました。
この勝利によって政親は守護の座につけるし、蓮如は加賀国で布教できるしでwin-winの関係になるはず……だったのですが、ここで問題が起こります。
用済みの門徒を追い出す
蓮如のおかげで守護になれた政親でしたが、政親にはある不安がありました。
それは
もしかしたら本願寺の権力が強くなってくるかも……
ということでした。
不安で不安で仕方なくなった政親は、なんと門徒の弾圧を始めます。
そして蓮如をはじめとした門徒は政親に追い出され、隣国の越中国へと逃げていきました。
これは門徒からしてみれば
助けてやったのになんで追い出すんだよ
とまさに恩を仇で返された気持ちなので、以降は政親への不満が高まっていきます。
加賀一向一揆
国人と結託し復讐
しかもこの時、将軍の足利義尚による戦いに参加したので、戦費が富樫家の財政を圧迫していました。
そのため領地を実質的に支配する国人からも不満が高まります。
そのため、「政親」という共通の敵ができた門徒と国人は、結託して共に高尾城に攻め込んだのです。
これが世にいう「一向一揆」でした。
高尾城に攻め込まれた政親は、一向一揆と国人の勢いを止められず、自害してしまいます。
政親を自害に追い込むと、門徒と国人は政親の大叔父の富樫泰高を、次の当主に祭り上げます。
しかし泰高は名目上の守護大名で、権力はほとんどありませんでした。
なのでここから加賀国の政治は、門徒のトップがしていくことになります。
数々の戦いで衰える勢い
この事件から約80年後、門徒には尾山御坊という拠点が建てられ、さらに一向一揆を拡大させましたが、数々の名将と戦ったため、だんだん勢いに陰りが見え始めます。
どんな勢力と戦ったかというと
- 朝倉宗滴
- 上杉謙信
- 織田信長
などです。
特に謙信との戦いでは、始めは優勢だったものの、次第に劣勢になっていき「尻垂坂の戦い」という決戦では、総大将の杉浦玄任は大敗を喫してしまいました。
しかしここで謙信が急死してしまいます。
門徒としては命拾いした……と言いたいのですが、さらに強敵が現れてしまいました。
織田信長です。
織田信長による鎮圧
織田信長はこの時、京都にある本拠地の石山本願寺も攻めて降伏させたため、尾山御坊ではやる気が失せてしまいます。
そんなところに信長の家臣、佐久間盛政が攻め込んできたことにより尾山御坊は陥落、100年も続いた一揆は終わることになりました。
その後
その後加賀国に前田利家が入国し、江戸時代は前田家が支配していくことになります。
また陥落した尾山御坊の跡地には、金沢城が築かれました。
まとめ
- 富樫家の内紛に介入し加賀一向一揆のきっかけを作った
- 政親に対して不満を抱いた門徒によって加賀一向一揆が起こった
- 佐久間盛政によって尾山御坊が落とされ、加賀一向一揆が終わった
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