「金ヶ崎の退き口」(金ヶ崎の戦い)は、朝倉家を攻めていた織田信長に浅井長政が裏切り、攻めてきたことで起こった戦。
この戦いで周囲を敵に囲まれた信長は、絶体絶命の大ピンチに陥ります。
しかし織田家臣の活躍により、信長はこの危機を脱することになりました。
金ヶ崎の退き口まで
命令を無視する朝倉義景
時は1568年、足利義昭を担いで上洛に成功した織田信長は、将軍の命令として

と越前国を治める朝倉義景に要求します。
この要求をした理由には

という信長の思惑があったとされています。
これに対し、歴史ある名家としてのプライドがあった義景は

と2度の信長による命令を拒否。
これにより信長は

と同盟相手の徳川家康と共に、朝倉家攻めをすることになります。
金ヶ崎の退き口
金ヶ崎城を落とす
そして越前国を攻めた織田・徳川軍は、重要拠点の金ヶ崎城を落とすため、手始めに支城の手筒山城を落とすことに成功。
翌日には金ヶ崎城を攻め、猛攻に耐えられなくなった城主の朝倉景恒は、降伏勧告を受け入れ、金ヶ崎城はいとも簡単に落城しました。
これに対し朝倉家では、義景が金ヶ崎城の援軍として出陣しますが、家中での混乱が原因となり、義景は退却。
金ヶ崎城(敦賀郡)一帯の奪還を諦め、防衛向きの木ノ芽峠という場所で織田軍を迎え撃つ準備をしました。
浅井長政の裏切り
このようにして連合軍は朝倉家の城を落とし、有利な状況を作り出していました。
ですが、そんな戦局が一瞬にして打破されることになります。
信長の妹のお市の方を娶り、織田家と同盟を結んでいた浅井長政が信長を突如裏切り、連合軍向かって進軍していたのです。
これにより信長は、朝倉家と浅井家に挟み撃ちされる危険性が出てきました。
もちろん、長政はなんの考えも無しに信長を裏切ったわけではありません。
長政が裏切った理由は、かつて信長が長政と同盟した際

と言っていた信長が約束を破ったため。
約束を先に破ったのはむしろ信長だった、と言えると思います。
お市の方が小豆の袋で危機を知らせる
ちなみにこの時、浅井家の内情を知っていたお市の方が信長に「両端を縛った小豆の袋」を渡し

というメッセージを伝えた、という逸話があります。
しかし、この話は後に作られたものである可能性が高いそう。
信長が朽木元綱の活躍で脱出
こうして長政に裏切られ、ピンチを迎えた信長は

と金ヶ崎城からの撤退を決めます。
そしてわずか10程の供を連れた信長は織田軍よりいち早く京へ脱出。
ちなみにこの脱出には、松永久秀の説得を受けた豪族の朽木元綱の協力により朽木を脱出できたため、「朽木越え」とも言われています。
織田軍3将の撤退戦
その後、信長の命を受けた池田勝正、明智光秀、木下(豊臣)秀吉により、連合軍の撤退戦が始まります。
この時

と考えた朝倉軍が連合軍を追撃するも、秀吉たちの奮戦により、朝倉家は主だった武将を討ち取ることが出来ませんでした。
こうして連合軍は1300人の死者を出しながらも、京への撤退に成功したのでした。
その後
この戦いにより、信長は勢力拡大の計画を大きく狂わされます。
しかし体制を立て直した信長はこの後、朝倉家と浅井家の両方を滅亡に追い込むことになります。
【参考】