今回は「明応の政変」について解説していきます。
この政変は細川政元が中心となって行われたクーデターです。
この政変によって、将軍の足利義稙(義材)が退位させられ、代わりに足利義澄(義遐)が将軍の座に着くことになりました。
明応の政変まで
まずは明応の政変が起こるまでを見ていきましょう。
ようやく決まった将軍が若死
明応の政変は、将軍の後継ぎ問題が発展して起こりました。
当時8代目将軍だった足利義政は、次の将軍を決めるのに弟の足利義視か、息子の足利義尚とで悩みます。
そしてこの悩みが原因となって、「応仁の乱」という大きな内乱が起こります。
この応仁の乱は11年もの間続き、全国の大名を巻き込む大戦乱となります。
その結果、義視は将軍を座を諦め、次の将軍は息子の義尚に決定しました。
しかし、その義尚は将軍に就いてからわずか16年で病死してしまいます。
25才という若さで病死してしまった義尚には息子がいなかったので、またもや次の将軍を決めるために、幕府が割れてしまいます。
後継決めで幕府が2つに
将軍候補となった人物は2人。
- 義政の弟である足利義視の子、足利義稙(この時は義材)
- 義政の兄である足利政知の子、足利義澄(この時は清晃)
でした。
義澄は、管領(将軍の次に偉い地位)の細川政元が
この方を将軍にしたい
と支持します。
しかし結局は日野富子という人物の推薦で、義稙が将軍に決まりました。
富子は義政の妻で、将軍の妻としてとても大きな権力を持っていました。
なので、いくら政元が管領と言えどもなかなか逆らえずにいたのです。
義稙に対立した伊勢貞宗が辞任
そして政元と同じく、義稙の将軍就任に反対した人物が、伊勢貞宗。
貞宗は、義尚の養育係をしていて、もともとは義尚の母である富子とも仲のいい人物でした。
しかし貞宗の父、伊勢貞親が過去に義尚に対して
義視を暗殺しちゃいましょう
と進言していたので、子の貞宗には直接は関係ないものの、義視の子である義稙に恨まれていないか心配だったのです。
そのため貞宗は義稙の仕打ちに恐れ、務めていた政所頭人という仕事を辞めてしまいました。
将軍の住まいをあげて義視が激怒
こうして、義稙の支持者として発言力を高めた富子でしたが、1つ大きな失敗をしてしまいます。
将軍になれなかった義澄のために、小川御殿を譲ったのです。
この小川御殿は、先代の将軍の義尚が住んでいた邸宅で、普通だったら将軍の義稙が継ぐはず。
なのでこれを知った義視は
義澄を将軍にするつもりなのか?
と怒り、小川御殿をほぼ全て壊してしまいました。
そして富子も、せっかくあげた小川御殿を義視が壊したのをきっかけに義視と対立し、初めは義稙を支持したにも関わらず、だんだん義澄を支持するようになっていきました。
義稙に決まるも…父が病死
こうして富子という支持者を失いながらも、将軍になった義稙でしたが、その半年後に父の義視が病死してしまいます。
義稙が将軍になれたのは、義政の弟として大きな力を持っていた義視がバックについていたからでもありました。
その義視が死に、富子が離れたので、義稙は後ろ盾を完全に失ってしまいます。
そのため、義稙は
将軍としての権力を見せつけて仲間を増やすために、大名を集めて俺に反抗する勢力をドンドン倒そう
と考えました。
権威を高めるため親征
こうして義稙は、六角高頼(行高)を討伐することに決めます。
もともとは前将軍の義尚が、反抗してくる高頼に怒って征伐をし、その途中で病死したので、この義稙の行動は義尚の意志を継いだという見方もできますね。
そしてこの征伐を知った各地の大名は、次々と義稙の元に集まりました。
ところが政元は、義稙に従いたくないのかこの征伐に反対をします。
しかし義稙が征伐をやめないと知るとついに折れ、家臣の安富元家を派遣しました。
こうして始まった六角征伐は、結果から言うと大成功を収めます。
敗北者となった高頼は、領地の近江国から甲賀へ、さらに追われると伊勢国へと逃げていきました。
また全体としては成功したものの、政元が派遣した元家は六角との戦いに敗北したので、義稙は
いろいろ反対してくるし細川政元は頼りにならないな
と思っていき、よけいに政元との対立を深めていくことになりました。
順調に進む畠山基家の征伐
こんな調子で六角征伐が成功し、勢いに乗った義稙は次に、畠山基家の討伐を計画します。
なぜ基家を討伐しようとしたかというと、畠山政長が要請してきたから。
政長は基家の父の畠山義就の代から、後継者を巡って争っていました。
そして政長は基家よりも幕府寄りの立場だったので、この願いが聞き届けられたというわけです。
しかし、この親征にも政元は反対をします。
これには明確な理由があって、それは
ライバルの畠山家はずっと争わせて、力を失っていけば細川家が繁栄する
という考えからでした。
もちろん、こんな個人的な理由で義稙が討伐をやめるはずがありません。
こうして義稙は河内国に着くと正覚寺に本陣を置き、基家の籠る高屋城に向けて、攻撃が始まりました。
この城攻めは、またもや多くの大名が参陣してきたこともあって、義稙の優勢で順調に進んでいきます。
裏で企む細川政元
しかし、やはり畠山家が統一されることがとても嫌だった政元は、これを阻止するためあることを企みます。
それは基家と結託し、義稙を倒すクーデターを起こすこと。
クーデターを計画した政元は、味方を作るため義稙に不満を持つ貞宗や富子、赤松政則を味方に引き入れて準備を整えました。
また、政元は事前に基家と連絡をとっていたそう。用意周到な一面がうかがえます。
明応の政変
クーデター勃発
仲間を増やし、準備が整った政元はついにクーデターを決行します。
政元は前々から支持していた次の将軍候補の義澄をすぐさま保護すると、義稙に味方する人物に向けて、進軍を始めたのです。
その過程で、義稙の弟や妹のいる寺を次々を壊していき、義稙の弟も殺されてしまいました。
次に政元は
これからの将軍は義澄様だ。義稙はもはや将軍ではないぞ
ということを正式に発表します。
そして、貞宗が河内国にいる諸大名に
我々はクーデターを成功させ、京は占領した。義澄様に従うのであれば義稙を置いて、京に集まりなさい
というような意味の文書を送りました。
勝利寸前から圧倒的不利に
この文書が届くと、諸大名はもちろん驚きます。
ここでどちらの将軍につくかで、自分の運命が決まるのですからね。
ここで諸大名は悩みますが、今のところは政元のクーデターが成功していた、という事実が影響したか、政長以外の大名は全員一致で義澄に従うと決め、京に向かっていきました。
なので義稙の味方は、なんとしてでも基家を倒したくて居残った、政長だけになってしまいます。
朝廷も仕方なくクーデターを認める
クーデターが一段落ついたところで、政元は朝廷に認めてもらうため、クーデターを起こしたことを報告しました。
これを聞いた天皇は「この私が直々に任命した将軍を勝手にやめさせるなんてけしからん!」
と怒り、政元に反抗するため、自分が天皇を辞めようとします。
しかし、公家に
武家がおかしな事を言ってきたとしても、言いなりになるのが天皇の定めです
となかなかヒドイことを言われ、天皇は思いとどまり一転、クーデターを認めることにしました。
政長の希望、紀伊国からの援軍
さて、従っていた大名がいなくなり、一気に絶望的になった義稙と政長の元に、政元が総勢40000の討伐軍を差し向けます。
義稙と政長の軍勢は8000と不利でしたが、それでも義稙と政長は正覚寺でまだまだやる気でいました。
4倍もの兵数差があるのに、なぜやる気でいるのか。
それは政長の領地、紀伊国に10000近くの援軍がいたから。
紀州の軍は、政長の危機を知ると正覚寺に向かいましたが、政則に足止めされてしまいます。
そこで紀州軍は、政則率いる軍と激戦を繰り広げます。
が、勝敗は僅かに政則の勝利。紀州軍は政長の元に向かうことができませんでした。
最後の抵抗
こうして完全に勝利を確信した政元の軍は、正覚寺へ総攻撃をさせます。
勝ち目が無くなった政長は自害、息子の尚順は紀伊国に逃げました。
その後、義稙は降伏。明応の政変は政元の勝利で終わったのでした。
その後
その後は、政元が義澄を担いで大きな力を持つことになります。
義稙は降伏してからは身元を拘束されますが脱出、各地を転々として再び将軍の座に就こうと奔走することになります。
まとめ
- 将軍の後継問題から明応の政変が起こった
- 細川政元が味方を増やし、クーデターを成功させた
- その後政元は発言力を強め、義稙は将軍に就こうと奔走する
最後まで読んでいただきありがとうございました。