戦の図鑑

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守山崩れ(森山崩れ)とは?徳川家康の祖父が暗殺された理由をわかりやすく図解解説!

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守山崩れ(森山崩れ)

 今回は「守山崩れ」について解説していきます。

この守山崩れとは、家臣の阿部正豊がある勘違いをしたせいで、徳川家康の祖父にあたる松平清康暗殺されてしまった事件です。

この守山崩れによって、松平家の勢力は一気に衰えていき、孫の家康の代まで衰退の時期を過ごすことになりました。

守山崩れまで

まずは守山崩れが起こるまでの松平家について解説していきます。

将軍問題で今川家と対立

1493年、京都では「明応の政変」という大きな事件が起こりました。

この明応の政変というのは、細川政元という人物が、将軍を足利義稙(義材)から足利義澄に変えてしまった事件。

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この事件によって、ここからは

  • 足利義澄
  • 細川政元
  • 伊勢貞宗
  • 斯波義達

を中心とするグループと

  • 足利義稙
  • 大内義興
  • 今川氏親

などという2つのグループに分かれて日本の各地で争っていくことになります。

そして松平家は、主君の伊勢貞宗が義澄を支持していたので、自然に義澄を支持するようになります。

一方、駿河国を支配していた今川家の今川氏親は、

いずれ遠江国も支配したいから、遠江国を支配する斯波義達と対立しよ

ということで、義達が敵対する義稙に味方しました。

対立する斯波義達と今川氏親

対立する斯波義達と今川氏親

松平家と義達は味方だったので、今川家と松平家は対立、争うようになるのです。

頼みの細川家が助けに来ず衰退

その後、実力で義達から遠江国を奪った氏親は、次に

松平家が支配する三河国にまで勢力を拡大しよう

と考えます。

そうして、今川家は松平家に対して戦いを起こすことになりました。

戦いを起こす今川氏親と松平信忠

戦いを起こす今川氏親と松平信忠

しかし、松平家の大きな味方である細川家が永正の錯乱で仲間割れを起こしていたため、細川家の力を借りることができなかった松平家は負けてしまいます。

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積極的に勢力を広げる松平清康

しかし、当主が松平清康へと変わると、松平家は積極的に勢力を広げようとします。

松平清康

松平清康/出典Wikipedia

一族の松平昌安の籠る山中城を攻撃し、降伏させたのです。

松平昌安の籠る山中城を攻撃する松平清康

松平昌安の籠る山中城を攻撃する松平清康

なぜ一族を攻めたかというと、昌安が娘を敵である水野忠政という人物に嫁がせたから。

それから約5年後、このように一族にも容赦なく叩いたので、清康はついに三河国の統一を果たすことになりました。

織田家&今川家vs松平家

一方その頃、隣の尾張国では支配する人物が斯波義達織田達勝(家臣)へと変わっていました。

この道勝は義稙(義維)派なので、義澄(義晴)を支持する清康とは敵。

なので清康は、尾張国と遠江国の両方に敵を持つ、まさに挟み撃ちの状態になってしまいます。

敵で挟まれる松平清康

敵で挟まれる松平清康

しかしこんな状況にもビビらないのが清康。

もっと勢力を広げたかった清康は

今川家の当主はまだ若いから、成長する前にうちにさっさと尾張国に攻め込むか

と尾張国への侵攻を計画します。

守山に出兵

尾張国の攻め込むことを決めた清康は、守山城を奪うため守山という場所に布陣しました。

守山城に進軍する松平清康

守山城に進軍する松平清康

ちなみに

この出兵はやめた方がいいですよ

と清康に言った家臣もいたようなので、もしこの諫めに清康が耳を傾けていれば、守山崩れは起こらなかったかも知れませんね。

守山崩れ

ここから守山崩れの解説に入ります。

阿部正豊が松平清康を暗殺

守山に着陣した翌日、清康の本陣で突然馬が暴れだしました。

馬が暴れた理由は今でもわかっていないんですが、この騒ぎを聞いた家臣の阿部正豊

俺の父上が清康に殺されたんじゃないか!?

という勘違いをし、なんと主君の清康を殺してしまったんです!

普通だったらそんな勘違いをするはずがありません。

しかしこの時は、「正豊の父の阿部定吉が織田家側に裏切るんじゃないか」という噂が立てられていて、定吉本人も

もし俺が謀反を疑われたら、この手紙を清康様に渡しておいてくれ

と身の潔白を示す手紙を正豊に渡していたほど、定吉は噂を恐れていました。

こんな状況だったので、正豊は

父上が殺されるんじゃないか

と敏感になっており、この事件が起こしてしまったと考えられています。

松平軍の撤退

そんな理由はともかく、当主を殺した罪は大きいものです。

当主を殺した正豊は、その場で家臣に斬殺されてしまいました。

そして当主がいなくなった松平軍はなすすべもなく、三河国に撤退していきました。

なぜか許された阿部正豊の父

1人の人間が罪を犯してしまった時、連座制で一族まで罰が下るのがこの時代。

この守山崩れが起こった時も、正豊の父である定吉にも何らかの罰が下るんじゃないかと誰もが考えますよね。

しかし定吉には罰はなく、そのまま次の当主の松平広忠に仕えることになりました。

なぜ罰がなかったのかはわかっていませんが、一説には「定吉は自害しようとしたので、広忠が許した」そう。

その後

この守山崩れの後、当主を失った松平家は一気に衰退します。

しかも次の当主となった松平広忠はまだ10才

松平家は自力で三河国の支配ができなくなり、今川家や織田家を頼ったりして何とか家の存続をしていくことになります。

まとめ

  • 阿部定吉に謀反の噂があったことが守山崩れが起こるきっかけ
  • 父が暗殺されたと勘違いした阿部正豊によって守山崩れが起こった
  • 当主を殺された松平家は、家康の代になるまで衰退する

最後まで読んでいただきありがとうございました。