「長島一向一揆」は、当時勢力を拡大してきていた織田信長に対して、長島(伊勢国)の本願寺教徒が起こした一揆。
最大で100000人以上も参加したこの一揆は、3度にも渡る信長との戦いにより鎮圧。
信長は一族や家臣を多く犠牲にして、本願寺勢力を大きく衰退させました。
長島一向一揆まで
信長の伊勢平定戦
時は1566年、尾張国を統一していた織田信長は、美濃国の斎藤龍興を稲葉山城で撃破(稲葉山城の戦い)。美濃国を占領します。
その後、龍興は伊勢国の長島まで逃亡します(諸説あり)。
そのため信長は長島に侵攻し占領、領主を従わせることに成功しました。
その2年後、信長は伊勢で最も力を持っていた北畠具教を「大河内城の戦い」で倒すと、伊勢国のほとんどを手中に収めました。
石山合戦の影響で勃発
本願寺勢力をまとめる本願寺顕如はそれまで、信長に勢力拡大の祝いをするなど、織田家との敵対を避けていました。
しかし、信長と将軍の足利義昭の仲が悪くなると顕如は

と信長との敵対を決意。
総本山の石山本願寺から織田軍を攻撃、「石山合戦」が勃発します。
そしてその影響は、伊勢の長島にも及びました。
願証寺を中心に100000人もの信徒がいた長島は、石山本願寺の一揆を知ると

と信徒が一揆を起こしたのです。
一揆衆は石山本願寺から派遣された下間頼旦によって、長島城を攻めこれを落とします。
そして小木江城を攻撃し、城主の織田信興(信長の弟)を自害させると、桑名城にも侵攻。
守っていた滝川一益を追い出し、これを陥落させました。
第一次長島一向一揆
信長の伊勢出陣
一方の信長は、この時「志賀の陣」によって周りを敵に囲まれており、長島での一揆を気にする余裕はありませんでした。
しかし翌年、志賀の陣での危機を乗り越え、近江国での勝利を重ねると信長は

と長島へ50000の大軍で出陣します。
織田軍は住宅を焼き討ちするなど長島を荒し回りました。
撤退する織田軍を叩く
その後、織田軍は戦いの準備を整えるため、1度軍を撤退させます。
これを知った一揆衆は、織田軍の帰路に伏兵を配置。織田軍を待ち伏せしました。
この先回り攻撃により、織田軍では戦死者が続出。
氏家卜全が戦死、柴田勝家がケガをするなど、第一次長島一向一揆は一揆衆の勝利に終わります。
第二次長島一向一揆
撤退路の増設に失敗
第一次長島一向一揆から約3年後、浅井家と朝倉家を滅ぼすと、信長は一揆衆とのリベンジマッチを望みます。
そして信長は

と水路での移動ができるようにしようと考えます。
そこで信長は大湊の会合衆に


と依頼をしますが、失敗に終わります。
しかし信長は出陣を決行。80000人を率いて伊勢国へと進軍していきました。
北伊勢の小豪族が続々と降伏
伊勢に着いた織田軍は、太田城を拠点に城攻めを開始し
- 西別所城(羽柴秀吉、丹羽長秀、蜂屋頼隆が落城)
- 坂井城(柴田勝家、明智光秀が落城)
- 近藤城(柴田勝家、明智光秀が落城)
といった城を陥落させます。
すると

と諦めた
- 春日部家(萱生城、伊坂城)
- 赤堀家(赤堀城)
- 大儀須家(桑部南城)
- 千種家(千種城)
- 富永家(長深城)
といった「北勢四十八家」呼ばれる北伊勢の小豪族が次々と降伏していきました。
再び帰国を狙って奇襲
この降伏によって有利となった織田軍でしたが、大湊の会合衆が船を出してくれないために

と判断した信長は、岐阜城へ退くことにしました。
そして帰国の道中、再び一揆衆が織田軍を待ち伏せし、攻撃を仕掛けます。
そのため、今度は殿となった林通政が戦死。
織田軍は一揆衆からの攻撃を受けながらも、大垣城への撤退に成功させました。
この第二次長島一向一揆では、織田軍もある程度の犠牲を出したものの、北伊勢を平定できたので、織田軍の勝利となります。
一揆衆に内応した会合衆を処罰
その後、信長の要求を断っていた会合衆が「一揆衆に加担していた」という事実が発覚します。
これに怒った信長は、会合衆の代表者を処刑。
以降、会合衆は一揆衆への味方をしにくくなりました。
第三次長島一向一揆
100000超の大軍で出陣
翌年、一揆鎮圧のため岐阜から津島(尾張国)に移動した信長は、3度目の侵攻を開始。
今回は、
- 織田信忠(信長の嫡男)
- 織田信雄(信長の次男)
- 織田信孝(信長の三男)
- 滝川一益
- 柴田勝家
- 佐久間信盛
- 羽柴秀長
- 池田恒興
- 丹羽長秀
- 佐々成政
- 前田利家
- 九鬼嘉隆
といった主要な家臣のほとんど(秀吉、光秀は不在)を連れ、総力を挙げての出陣となりました。
各所で一揆衆を撃破
そして120000の大軍(70000~80000とも)で長島へ侵攻した信長は、陸と海からの攻撃により、一揆衆の砦を次々と落としていきます。
そのため、100000人もの一揆衆は
- 長島城
- 屋長島城
- 中江城
- 篠橋城
- 大鳥居城
の5つの城に追い詰められることに。
そのうちの大鳥居城は、織田軍の大鉄砲での攻撃により戦意を喪失します。
織田軍に降伏を申し出ますが

と考えた信長にこれを断られると、籠っていた宗徒が続々と脱走。
織田軍がこの脱走した1000人程を討ち取ったため、大鳥居城は落城しました。
また、篠橋城も大鉄砲により織田軍に降伏を申し出、


と言う条件で信長は長島城への移動を許し、篠橋城は開城しました。
しかし実は一揆衆には裏切る気などさらさら無く

という思惑から、信長に嘘の降伏をしたのです。
そして信長はこの一揆衆の考えを読んでおり、

と考え、一揆衆の移動を許したのです。
捨て身の攻撃で織田一族が討死
そしてその長島城では、篠橋城の一揆衆が助けを求めて入城したことにより、兵糧の減りが早くなっていました。
そのため、しばらくすると長島城では餓死者が続出。
負けを悟った一揆衆は信長に降伏を申し入れ、これが許可されました。
しかしやはり一揆衆を許せなかった信長は、城から逃げる一揆衆に鉄砲で攻撃。
頼旦や指導者の顕忍など多くの教徒が射殺されました。
そしてこの仕打ちに起こった一揆衆が、織田軍に捨て身の突撃をします。
守りが甘かった織田軍は、この攻撃をもろに受けてしまい、信長の兄の織田信広を筆頭に、多くの織田一族が討たれることになりました。
この攻撃は結局織田軍によって鎮圧されますが

と考えた信長は、残る屋長島城、中江城を厳重に包囲。
2重に柵で囲った後に城を燃やし、城内の20000人程を焼死させ、信長は長島一向一揆の鎮圧に成功させました。
その後
この戦いにより長島の支配体制は崩れ、この後長島の地は滝川一益が治めていくことになります。
またこの戦いにより本願寺の主戦力が1つ消え、残るは石山本願寺と越前国の2つのみとなりました。
【参考】