今回は「小田原征伐」について解説していきます。
この戦いは豊臣秀吉と北条氏政が戦いました。
秀吉はこの戦いで天下統一を達成し、氏政は切腹することになります。
小田原征伐はこんな戦い!
初めに小田原征伐とはどんなものか、表で見ていきましょう。
小田原征伐 | ||||
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期間 | 1590年2月~7月 | |||
戦場 | 小田原城(神奈川県小田原市)など | |||
交戦勢力 | 豊臣家 | 北条家 | ||
主な武将 | 豊臣秀吉 | 北条氏政 | ||
戦争理由 | 北条家が豊臣家の指示に従わないため | |||
兵力 | 200000 | 82000? | ||
形式 | 籠城戦 | |||
結果 | 氏政などが切腹し小田原城は開城 |
小田原征伐まで
次に小田原征伐が起こるまでを見ていきましょう。
名胡桃城を騙して盗る
豊臣秀吉はこの頃、日本のほぼ全てを手中に収めており、徳川家康や島津義久などの実力者も支配下に置いていました。
そんな秀吉ですが、まだ支配下に置けていない勢力がありました。
それが北条家でした。
できるだけ戦わずに北条家を従わせたいと考えた秀吉は、
と北条家に頼みました。
しかし沼田の全てを貰えないことに氏政は不満を持ち、家臣の猪俣邦憲に残りの3分の1にある名胡桃城を奪わせます。
しかも一門の北条氏邦が勝手に下野国を攻めていたので、秀吉はさすがに怒り、小田原征伐が起こることになったのです。
小田原征伐
こうして秀吉による小田原征伐が始まるのですが、この後
- 豊臣秀吉や徳川家康を中心とする本軍
- 前田利家や上杉景勝を中心とする北方軍
に分けて侵攻をしていくことになります。
※片方ずつ解説していくので時系列に前後が出ますがご了承ください。
豊臣本軍の動向
秀吉を大将とした本軍は、
- 家康や豊臣秀次の軍→山中城
- 織田信雄の軍→韮山城
- 豊臣秀長の水軍→下田城
とさらに3手に分けて城攻めをしていきました。
山中城での戦い~徳川家康VS北条氏勝
山中城は北条家の領土を繋ぐ重要拠点なので、豊臣軍の襲来に備えて工事をしていたのですが、完成する前に豊臣軍が侵攻してくることになりました。
山中城に着いた家康は攻撃を開始しましたが、間宮康俊の奮戦により味方の一柳直末が戦死します。
しかしこの康俊の奮戦は戦局を覆すまではいかず、結局はわずか1日で落城することになりました。
城主の松田康長は落城を悟ると、援軍として来ていた北条氏勝を逃がし、康俊などの家臣と共に戦死しました。
城から脱出した氏勝は、初めは自害しようとしますが、家臣に説得されて居城の玉縄城まで逃げ豊臣軍に備えることになります。
またこの戦いで籠城軍は半分の2000人が戦死しますが、豊臣軍も秀次が
と考え力攻めをしたので、1000人の犠牲が出ることになりました。
その後の家康軍
こうして山中城を落とした家康軍は、別働隊に
- 鷹之巣城
- 足柄城
などを落とさせ、小田原城の包囲を始めることになります。
韮山城での戦い~織田信雄VS北条氏規
一方、織田信雄を大将とする50000の軍は韮山城を包囲します。
しかし氏政の弟である氏規の守る韮山城は固く、なかなか陥落しそうになかったため秀吉は
と命じたため、信雄は小田原城の包囲に向かいました。
ちなみに氏規はこの後100日ほど持ちこたえ、家康の説得により開城、降伏しています。
下田城での戦い~豊臣秀長VS清水康英
そして豊臣秀長率いる水軍は、下田城を海から攻めることになりました。
水軍の一部は上陸し、城主の清水康英と戦いを繰り広げていたのですが、途中で
との命令が下ったので長宗我部元親のみを残し、他は小田原城を包囲しに行くことになります。
残された元親は、海上から大砲を撃つなどして、相手の戦意を削ぐことに成功します。
そして戦闘開始から20日ほどたった頃、康英は勧告に応じて開城することになりました。
北方軍の動向
一方北関東では、前田利家や上杉景勝を中心とした軍が、北方の上野国から侵攻を始めていました。
この侵攻によって北条方の城多数が落とされたのですが、ここではその中で5つの戦いをピックアップして解説します。
松井田城での戦い~前田利家VS大道寺政繁
北から進出してきた前田利家は、初めに松井田城を包囲します。
そして利家は松井田城に猛攻撃を仕掛けるのですが、城を守る大道寺政繁の強い抵抗により、城の攻略が進みませんでした。
しかもこの間に、山中城が1日で落ちたことを知った利家はさらに焦り、兵糧を焼くなどしてさらに攻撃の手を強めます。
そしてその甲斐もあって、政繁が降伏し松井田城は開城の時を迎えました。
しかし、開城したのは攻撃から約1ヶ月してからのことでした。
鉢形城での戦い~前田利家VS北条氏邦
松井田城が陥落してから、いくつもの城を落として勢いに乗った利家は、次に鉢形城を攻めます。
鉢形城を守るのは北条氏邦。
軍事面でなかなか優秀だった氏邦は、初め
野外決戦をしてで秀吉と決着をつけよう
という意見を持っていましたが、氏政に受け入れられなかったので、仕方なく居城の鉢形城に籠っている人物でした。
そこに前田利家などが攻めてきたのですが、さすがは氏邦。
兵力差が10倍以上開いているにも関わず、持ちこたえます。
しかし本多忠勝が山の上から大砲を撃ってきたので、ついに鉢形城は開城することになりました。
ちなみに、降伏した氏邦を一時は殺されそうになったのですが、攻撃した前田利家が
氏照は見事な戦いをしていたので命だけは助けて欲しい
助命を嘆願したので、命は助けられました。
八王子城での戦い~前田利家VS横地監物
次に八王子城を包囲した利家は、早速攻撃を開始します。
この城ももともとは氏政の弟、北条氏照が城主でした。
しかし氏照は他の城主と同様に小田原城にいたので、この時は代わりに家臣の横地監物が城を守ることになりました。
さて、八王子城では監物が奮戦を見せ激戦となりますが、さきほど降伏していた政繁などが、豊臣軍に城の構造を教えていったので城は1日で陥落してしまいます。
そして八王子城が落城寸前となると、氏照の正室などの女子は一斉に自害または滝に身を投げ、滝は血に染ったと言われています。
監物は城を脱出しますが、逃げる途中で切腹しています。
八王子城の戦いについてはこちらでさらに詳しく解説しています。
別働隊の動向
一方小田原城を包囲していた本軍ですが、ここで秀吉が南の北条方の城を落としていないことに気づきます。
そして秀吉は、小田原城を包囲する一部の軍(徳川家康や浅野長政)を二手に分け、後に合流しながら侵攻させることになりました。
玉縄城での戦い~本多忠勝VS北条氏勝
先に山中城から逃げていた氏勝は、この玉縄城に籠っていました。
そこに本多忠勝の徳川軍が攻めてきたのですが、一旦は切腹しようと思っていたくらいなので、戦意はあまりありませんでした。
そのため徳川軍から降伏の勧告が来ると、これを受け入れ開城することになります。
降伏した氏勝は、その後政繁と同じように豊臣側につき、戦いを終わらせるため奔走することになります。
岩槻城での戦い~浅野長政VS伊達房実
この城も、もともとは一門の北条氏房が城主だったのですが、小田原城に行ったため家老の伊達房実が守ることになりました。
房実も激戦を繰り広げ、奮戦したのですが、20000人の大軍の前に降伏を余儀なくされます。
この戦いで北条軍の死者が1000人と半数だったことからも、戦の壮絶さがわかると思います。
忍城での戦い~石田三成VS成田長親
このように犠牲を負いながらも、次々と城を落としていった豊臣軍は、いよいよ最後の忍城にまで到達します。
この忍城も成田家の当主、成田氏長とその弟が小田原城に出陣しており、留守だった叔父の成田泰季もタイミング悪く病死したため、きゅうきょ泰季の息子成田長親が城を守ることになりました。
ですが忍城は川に囲まれており、堅城して知られている城。
そう簡単には忍城を落とすことができません。
そうした時に、秀吉から
と命令が届きます。
命令された石田三成は水攻めを実行しましたが、忍城は思ったように沈みませんでした。
こうして城が全然落ちそうになかったので、北方軍やもう1つの別働隊が応援に来ましたが、それでも城は落ちません。
そして結局この城は、小田原城よりも長い間持ちこたえていくことになります。
忍城の戦いについてはこちらでさらに詳しく解説しています。
小田原参陣
始めに豊臣家に従わない勢力が北条家だ、ということを言ったのですが、実は東北にも従わない勢力がいました。
それが伊達家です。
伊達政宗は
- 人取橋の戦い
- 大崎合戦
- 郡山合戦
- 摺上原の戦い
で領土を広げた後、北条家と同盟を組んでいたため秀吉にとっては無視できない存在でした。
その政宗には前々から
と言っていたのですが、政宗は遅れてやってくることになりました。
しかも政宗は、秀吉による惣無事令という勝手に戦をしていけない命令に反していたので、一部の領地を没収されてしまいます。
この件は氏政にとっては
政宗とは同盟を組んでいたのに裏切られた
という気持ちだったかもしれません。
石垣山一夜城
また小田原城を包囲していた秀吉が、小田原城の隣にわずか一日で石垣山城という城を作ったので、小田原城にいた兵の士気はさらに下がってしまいます。
もちろん、石垣山城は一日で作ったわけではなく、作っている間は木などで隠し、完成したら木を切り倒すと、小田原城からは一日で出来たように見えるというからくりでした。
しかも秀吉は茶会を開いたり、妻女を呼び寄せ温泉を楽しんだりして、余裕を見せつけていたので、小田原城は抵抗する気を無くしてしまいました。
ちなみに「小田原評定」という言葉は、この時降伏するかどうかの議論で、なかなか結論が出なかったことからこの言葉ができたのだそう。
小田原城開城
それはともかく、抵抗する気を無くした北条軍に次々と落城の報せが届き、さらに兵の士気は下がっていきます。
兵士がそんな様子なので、ついに北条氏直は
俺が切腹するから城兵の命は助けてやってください
と申し出ることになります。
結局氏直は切腹せずに済んだのですが、代わりに氏政や氏照、政繁などの切腹を条件に小田原征伐が終わることになりました。
その後
この戦いによって秀吉は、念願の天下統一を達成(後に反乱は起きますが)します。
命を助けられた氏直は、高野山に追放されます。
後に秀吉によって1万石を与えられ大名復帰を許されますが、その3ヶ月後に病死してしまいます。
氏直には子がいなかったため、これによって北条家の嫡流は断絶してしまいます。
また忍城は、小田原城が開城してもなお籠城を続けていましたが、北条家が降伏したことを知らせ降伏を呼びかけると開城し、これによって小田原征伐は完全に終了しました。
まとめ
- 秀吉の命に従わず城を奪ったため小田原征伐が起こった
- 豊臣軍の大軍に押され北条家は降伏した
- 北条家嫡流は断絶、忍城は小田原城よりも耐えた
最後まで読んでいただきありがとうございました。