「大河内城の戦い」は、尾張国・美濃国を治める織田信長が、伊勢国の大部分を支配下とする北畠具教に挑んだ戦。
この戦いでは勝敗は決まらなかったものの、信長に有利な条件で和睦が決まります。
そしてこの戦いにより、後に北畠家は事実上滅亡。
信長は伊勢国をも手中に収めることに成功しました。
大河内城の戦いまで
北伊勢を支配下に収める
時は1567年、尾張国に加えて美濃国をも支配下にしていた信長は

と伊勢国への侵攻を考えます。
当時、伊勢国は
- 北伊勢=神戸具盛(神戸家)、長野具藤(長野工藤家)など
- 南伊勢=北畠具教(北畠家)
という支配体制で、信長は始めに北伊勢へ侵攻します。
具盛は信長の侵攻に対し、重臣との協力により1度は織田軍を退けます。
しかし2度目の侵攻で具盛は

と思い、抗戦を断念。
信長の三男(織田信孝)を神戸家の養子にすることで、両者の和睦は成立しました。
一方の具藤も

という考えでしたが、重臣の細野藤敦と対立し内紛が発生。
藤敦に敗れた具藤は実家の北畠家へ逃亡し、足並みの崩れた長野工藤家は信長に降伏します。
弟の織田信包を具藤の後釜に迎えた信長は、長野工藤家を取り込むことにも成功しました。
木造具政の裏切り
北伊勢を奪取した信長は、次に南伊勢の北畠家を倒そうと画策します。
そこで信長が行ったのは「敵を寝返らせる作戦」でした。
信長は家臣、滝川一益の策略により、具教の弟の木造具政を裏切らせることに成功。
弟の裏切りに怒った具教が木造城に攻め寄せるも、木造城は落ちる様子を見せませんでした。
大河内城の戦い
大軍勢で大河内城に向かう
そんな中「本圀寺の変」を終わらせ、上洛戦から帰ってきた信長は北畠家を倒すため挙兵します。その数脅威の70000。
大軍勢を率いる信長は、岐阜城を出、対北畠の最前線である木造城に着陣します。
一方の具教は、信長の侵攻を知るなり木造城攻めを中断。
この時は、天然の要害である大河内城を中心に軍を分散させ、防衛に備えていました。
戦闘の準備を整えた信長は、手始めに豊臣秀吉(木下秀吉)に阿坂城を落城させます。
阿坂城は大河内城の支城なので、信長は

という考えだったのでしょう。
しかし信長はこれ以降、他の支城を落とすことはなく、存在を無視するかのごとく大河内城へと向かっていきました。
居城・霧島城を焼き討ち
大河内城に着いた信長は、石垣(鹿垣)を大河内城の周辺に設置。
大河内城を厳重に包囲します。
その後、織田軍は夜襲を試みますが、雨が降ったため失敗に終わります。
すると翌日、信長は一益に命じ霧島城(多芸城)を放火させます。
そして、一益は周辺の住宅にも放火を加えました。
この行動を行った狙いとしては、持久戦に持ち込もうとした信長が

という兵糧切れを狙ったものだとされています。
信長有利で和睦
そしてこの放火が功を奏したか、およそ1ヶ月後、織田家と北畠家は和睦することになります。
和睦の条件は
- 信長の次男(織田信雄)を北畠家の養嗣子とする
- 大河内城を信雄に譲り、具教と具房(具教の子)は他の城へ移る
という、実質「織田家勝利」といった一方的なものでした。
その後
この後、大河内城の戦いで信長を恨んだか、具教は密かに信長の敵(武田信玄)と内通します。
しかしこの事は後に信長にバレることとなり、具教や具藤は殺されることになりました(三瀬の変)。
【参考】