今回は「三浦の乱」について解説していきます。
三浦の乱は恒居倭人と呼ばれる日本人が、朝鮮国に対して起こした反乱です。
この三浦の乱によって日本と朝鮮国は仲が悪くなり、国交を中断することになりました。
三浦の乱まで
まずは三浦の乱が始まったきっかけから見ていきましょう。
倭寇をきっかけに始まった通交
三浦の乱が始まるまで、日本と朝鮮国は「倭寇」という存在よって、お互い連絡を取り合ったり、貿易をしたりしていました。
この倭寇というのは、各地の沿岸で略奪行為をしていた人達のことで、簡単に言えば日本人の海賊(後に日本人が少なくなりますが)です。
そして朝鮮半島にも倭寇がやってきて、好き勝手に荒らしまわっていました。
朝鮮国はこれに困っていたので、対馬国を治める宗家に
迷惑なんで倭寇の活動を止めさせてください
と荒らし行為を止めるように伝えます。
これに対して宗家は
貿易したりしてくれるならいいですよ
とう条件付きで倭寇の活動を止めさせました。
こうした経緯で、朝鮮国と宗家は貿易を始めたのです。
貿易したくない朝鮮国、貿易したい宗家
倭寇を辞めさせるため始まった貿易でしたが、朝鮮国はこのやり取りで損をしていました。
それは連絡を取り合ったり、貿易をする度にお金がかかるから。
しかも朝鮮国は「他国とはほとんど貿易せず自給自足する国」だったので、貿易はあまりにも意味が無いことでした。
そしてお金の負担が耐えられなくなった朝鮮国は、ついに貿易に制限を加えます。
しかし、この制限に怒ったのは宗家。
宗家の治める対馬国は山が多く、田もロクに耕せないような土地だったので、貿易をして利益を出す方法でしか生きていられなかったのです。
この結果
- 貿易したくない朝鮮国
- 貿易したい宗家
という方針の違いができてしまいました。
対馬国からの移住が続出
そんな中、対馬国から朝鮮国の港の三浦へ移住する人達が続出します。
なぜかというと、
田が耕せない対馬国にいるなら、いっそのこと土地が豊かな朝鮮半島へ行こう
と考える農民が増えたから。
そして約60年の間に、「恒居倭人」と呼ばれる三浦での日本人の人口は
- 1436年→206人
- 1494年→3105人
と15倍以上に膨れ上がっていきました。
恒居倭人を取り締まり不満が爆発
こうして恒居倭人が増加していくと、次第に恒居倭人は悪事を働くことになります。
例えば
- 決められた場所以外で漁をする
- 倭寇のように海賊になる
- 密貿易(不正規な貿易)をする
- 税を納めない
など。
なので朝鮮国は恒居倭人をだんだん迷惑に思い、ついに
海賊のような行為を働いたら即処刑にします
など、恒居倭人を厳しく取り締まることにしました。
そしてある事件が起きます。
海賊行為をしていない恒居倭人が釣りをしていた所、海賊と勘違いされ殺されてしまったのです。
この事件によって、恒居倭人は厳しく取り締まる朝鮮国に対して、日頃から溜まっていた不満が爆発しました。
三浦の乱
こうして朝鮮国に対して不満を持った恒居倭人によって、三浦の乱が勃発します。
恒居倭人の挙兵、宗義盛の援軍
不満が爆発した恒居倭人は、ついに挙兵をします。
また挙兵を聞きつけた宗家当主、宗義盛(当時は盛順)が援軍にやってきて、総勢4500の軍で反乱を起こしていきます。
※因みに宗家が三浦の乱を起こした、と言われています。
釜山浦と薺浦を占領
こうして義盛を大将とした反乱軍は、初めに三浦の1つである釜山浦に侵攻します。そして義盛は釜山浦を占領することに成功しました。
この釜山浦を守っていた朝鮮国の武将は討ち取られてしまいます。
次に義盛が向かった場所が、薺浦。
この薺浦でも、義盛は占領に成功します。
ここでは薺浦を守る武将を生け捕りにしました。
朝鮮国の反撃
そして義盛は釜山浦から東莱城、薺浦から熊川城に向かいます。
しかしここから朝鮮国の反撃が始まり、義盛は攻撃に失敗。
勢いを失った義盛は薺浦に兵力を集中させ、兵の一部を対馬国へ帰らせました。
対馬国へ撤退
これ以上攻めても勝てないだろうから、朝鮮国と交渉してできるだけ有利に戦いを終わらせたい
と考えた義盛は、できるだけ有利に朝鮮国と講和をしようと努力をします。
しかし朝鮮国に仲直りする気は無く、朝鮮軍は薺浦に攻撃を始めました。
そして抵抗むなしく薺浦は陥落。義盛たちは対馬国へ逃げ帰りました。
その後
その後、日本と朝鮮国は仲が悪くなりしばらく間、絶交の状態が続きます。
しかし朝鮮国も、多少は貿易する必要があったので、三浦の乱の2年後に日本と朝鮮国の間に、壬申約条が成立。再び貿易が始まることになりました。
まとめ
- 恒居倭人の横暴によって三浦の乱が始まる
- 途中から反乱軍の勢いが止まり、朝鮮国が三浦の乱を鎮める
- 三浦の乱から2年後、再び貿易が始まる
最後まで読んでいただきありがとうございました。