「志賀の陣」は、摂津国へ攻めに行った織田信長の隙をつき、浅井長政と朝倉義景が京を狙い挙兵した戦い。
この戦いではその後、反織田勢力が次々と便乗して挙兵。
信長は多くの敵に囲まれピンチを迎えますが、最終的には講和に終わります。
志賀の陣まで
金ヶ崎の戦い
時は1568年、織田信長は足利義昭を担いで上洛戦を開始、義昭を将軍の座につけます。
その功績により室町幕府では、信長が大きな影響力を持つように。
そして信長は


と朝倉義景が命令に従わないことを大義名分に、朝倉家攻めを始めます。
そして信長と義景の間で「金ヶ崎の退き口」(金ヶ崎の戦い)と呼ばれた戦いが起こると、織田軍は序盤は優勢に戦いを進めます。
しかし、信長の同盟相手で信長の妹であるお市の方を娶っていた浅井長政が

と信長を突如裏切ると、事態は急変。
有利だった織田軍は退路を断たれ、たちまち大ピンチとなりました。

と思った信長は撤退戦を繰り広げ、何とか越前国からの撤退に成功しました。
姉川の戦い
「金ヶ崎の退き口」での敗北から約2ヶ月後、岐阜城へ戻った信長は

とリベンジを決意。
今度は、盟友の徳川家康との連合軍で朝倉・浅井に勝負を挑みました。
そこで起こったのが「姉川の戦い」。
両者兵数はほぼ同じで、開戦当初は互角の戦いが続きます。
が、徳川家臣の榊原康政の奇襲により、側面に攻撃を食らった朝倉軍が敗走。
士気の崩れた浅井軍も同様に敗走していき、この戦いは織田・徳川軍の勝利となりました。
野田城・福島城の戦い
一方で、信長が朝倉・浅井と戦っている間、畿内では織田家の勢力が手薄になっていました。
そしてこれを狙っていたのが三好三人衆。
上洛戦や「本圀寺の変」で信長に敗北し、四国に追いやられていた三人衆は

と言わんばかりに挙兵、 摂津国に攻め寄せました(野田城・福島城の戦い)。
これを知った信長は自ら出陣、三人衆方の浦江城・畠中城を落とし、三人衆が信長に和平を申し入れるまでに戦いを有利に進めます。
しかしそんな中、石山本願寺の本願寺顕如が信長との敵対を表明。
三人衆側に味方し、一揆勢が織田軍めがけて攻めかかったのです。
劣勢となった織田軍は、なおも三人衆と顕如に対して状況の打破を試みますが、さらなる困難が待ち受けることになります。
浅井長政、朝倉義景の挙兵
野田城・福島城の戦いで信長が苦戦していることを知った朝倉義景・浅井長政が


と京までの守りが甘いところを狙って挙兵したのです。
信長はこのため朝倉・浅井軍に背後を突かれる形に。
この織田軍にとって最悪の状態から「志賀の陣」は始まります。
志賀の陣
宇佐山城の戦い
朝倉・浅井家の守りとして置かれていた宇佐山城主の森可成は、この報せを知ると

と侵攻ルートの重要拠点である坂本に向かい、織田信治(信長弟)と青地茂綱と共に敵を迎え撃つ姿勢を整えます。その数1000~3000。
そこに30000から成る朝倉・浅井軍が攻め、戦いが起こると緒戦では織田軍が勝利。
しかし延暦寺が顕如の要請で参加すると、側面から攻撃を受けた織田軍は崩壊。
可成、信治、茂綱は戦死し、朝倉・浅井軍は宇佐山城に攻め込みました。
この時城主を失っていた宇佐山城でしたが、可成の家臣の活躍により頑強な抵抗をします。
そして


と陥落を諦めた朝倉・浅井軍は宇佐山城を通り越し、京へ進軍していきました(宇佐山城の戦い)。
織田軍の撤退
朝倉・浅井軍が京まで迫ってきていることを知った信長は

と、摂津国から京へと撤退する判断を下します。
醍醐、山科まで進軍していた朝倉・浅井軍は、1度比叡山延暦寺に撤退して織田軍を迎え撃つ体制を取ります。
比叡山延暦寺攻防戦
そして織田軍が延暦寺を包囲したことにより、織田軍vs朝倉・浅井・延暦寺での戦いが始まります。
信長は包囲した当初、延暦寺に

と伝えるものの、延暦寺は無視。翌年の「比叡山焼き討ち」へと繋がっていきます。
こうして織田軍は延暦寺を包囲することになりましたが、延暦寺には多くの兵が籠っており、容易に落とせるものではありません。
そのため、織田軍の主力は延暦寺から身動きが取れない状態となります。
六角の挙兵と長島一向一揆
織田軍主力が延暦寺に釘付け、ということは、織田領のあちこちの守りが手薄、ということ。
これをチャンスだと捉えたのが六角義賢と本願寺顕如でした。
信長へのリベンジを誓っていた義賢は、

と近江国で本願寺教徒と共に挙兵。織田軍の連絡路を妨害しました。
顕如もこのチャンスに乗っかるように、各地の本願寺教徒に

と一揆を起こさせ、伊勢で「長島一向一揆」が発生します。
最終的に信長は、この一揆の鎮圧に約4年間もの年月を費やすことになりました。
秀吉・長秀vs六角・本願寺
近江国で浅井軍を警戒していた木下秀吉(豊臣秀吉)と丹羽長秀は、義賢の挙兵を知り


横山城から出陣、六角軍を破ることに成功します。
この敗北により

と判断した義賢は信長と和睦。この戦いからいち早く離脱しました。
一方で本願寺勢力は未だ健在、織田信興(信長弟)を討ち取る戦果を挙げています。
堅田の戦い
そんな中、近江国の堅田で
- 猪飼昇貞
- 居初又次郎
- 馬場孫次郎
という3人の武将が織田方に寝返ります。
そのため信長は

と堅田に1000人を送り、砦を占領させます。
しかし、この動きを読んでいた朝倉景鏡、前波景当が延暦寺から堅田の織田軍を攻撃。
織田軍は奮戦するものの、包囲されたため織田軍は敗北。堅田の奪取に失敗しました(堅田の戦い)。
義昭の仲介で講和
志賀の陣開戦から約3ヶ月、織田軍は六角と和睦したものの、依然として各地に敵を多く抱えていました。
そこで、信長は新たな手段に出ます。
将軍と朝廷の仲介を元に、朝倉・浅井・延暦寺(朝廷の仲介は延暦寺のみ)に停戦を求めたのです。
どの大名も、将軍と朝廷にはなかなか逆らえません。
義景が

とこれからの戦いに心配したこともあり、停戦は成立。
3ヶ月続いたこの戦いは、引き分けという形で幕を下ろしました。
その後
この戦いにより、信長は弟や家臣を多く失うことに。
また、志賀の陣の翌年、信長は勧告を無視した延暦寺に対して攻撃を仕掛けます。
徹底暦な攻撃を受けた延暦寺は、最終的に焼き討ちされることになりました。
【参考】