「信貴山城の戦い」は勢力を著しく拡大させていた織田信長に対し、「梟雄」松永久秀が起こした反乱。
久秀はこの前にも信長に背いていましたが、2度目の裏切りとなる信貴山城の戦いで自害、松永家は滅亡することになりました。
信貴山城の戦いまで
三好三人衆との戦い
三好家の重臣である松永久秀は「永禄の変」以降、同じく重臣の三好三人衆と三好家を二分するような対立を起こしていました。(※対立の理由については下記を参考)
この内乱は始め、新たに将軍となった足利義栄に

という討伐令を出させ、三好一門を多く味方につけた三人衆が有利となります。
しかしその後、三好家当主の三好義継が

と三人衆に対して不満を抱き、久秀サイドへ離反。
当主を味方につけた久秀は力を盛り返し、その後の「東大寺大仏殿の戦い」に勝利したことで畿内の覇権を握ることに成功しました。
ただ、依然として四国に大軍勢を抱えた三人衆の方が一枚上手。
翌年には居城の信貴山城を奪われるなど、久秀はピンチに陥ります。
信長に助けられる
そこで久秀は、起死回生の一手を思いつきます。
それは

というもの。
信長率いる織田家はこの時、もう1人の将軍候補である足利義昭を担ぎ、上洛戦を開始したところ。
そのため


という信長の思惑と

と考えた久秀の間で利害が一致。
「三好三人衆」という共通の敵を持った両者は同盟することになりました。
この同盟により久秀は、信長の軍事力をバックに急速に勢力を回復。
信貴山城を取り戻し、三好三人衆を畿内から追い出したのでした。
信長へ最初の離反
こうして三好三人衆を追い出し、信長から大和国の統治を認められた久秀でしたが、信長と義昭の仲が悪くなると義昭に味方し「第二次信長包囲網」に参加します。
この包囲網参加により、久秀は信長に対して最初の敵対ということになります。
この包囲網は、始めこそ信長と接戦を繰り広げますが、中心人物である武田信玄が病死したことをきっかけに、包囲網側は劣勢に。
優勢となった信長は、ついにリーダーの義昭の追放に成功、包囲網は瓦解しました。
その後、久秀の主君の義継までもが「若江城の戦い」で自害。
そのため

と悟った久秀は翌月に信長に降伏。
信貴山城に次ぐ拠点の多聞山城を差し出したため、久秀は許されることになりました。
大和守護に選ばれず
こうして、今度は信長に対して臣従することになった久秀でしたが

と思った信長によって、今まで務めてきた大和守護の座を奪われてしまいます。
そして新たに大和守護になったのは筒井順慶(その前に塙直政が守護となるも戦死)。
順慶は久秀の長年のライバルで、10年以上前から大和国を巡って争いを続けていました。
順慶は始めこそ信長に敵対していたものの、信長と久秀が争ってからは信長に接近していったので「久秀よりは信長寄り」と見られ、信長に大和国を任された訳です。
大和守護を取られたことにより、久秀は信長に対する不満を持つことになりました。
多聞山城を壊され謀反へ
大和守護を取られたことが、信貴山城の戦いが起こった要因の1つですが、久秀が謀反を起こした理由はもう1つあります。
それは、「多聞山城の破却」です。
多聞山城はこの時、久秀が差し出したことにより順慶の領地となっていましたが

と考えた順慶によって多聞山城は取り壊されたのです。
この一件が決め手となり

と焦った久秀は、二度目となる信長への謀反を決行することになります。
久秀の勝算
こう言うと、「久秀は焦って無計画のまま謀反を起こした」ように思われるかのしれませんが、久秀には十分勝算がありました。
それは
- 本願寺顕如(石山本願寺)
- 上杉謙信(上杉家)
という二つの反織田勢力の存在でした。
1つ目の顕如は、前の大和守護だった塙直政を戦死させた張本人。
中国地方の覇者、毛利家の支援を受けながら石山本願寺で信長の進撃を食い止めていました。
2つ目の謙信は、言わずと知れた名将。
謙信はもともと織田家と同盟をしていましたが、追放された義昭から


というお願いをされたことにより、信長との対決を決意。
上洛戦を開始し、越中国を平定。能登国にまで破竹の勢いで進軍を続けていました。
久秀は

と考えたわけです。
信長の勧告を拒絶
そんな久秀の考えを知らない信長は、久秀が謀反を起こしたことを知ると

と使者に伝えさせました。
信長のこの対応は、2回目の裏切りをした久秀に対してあまりにも寛大でしたが、久秀はこの勧告を拒否。
平和的解決を諦めた信長は、ついに久秀討伐の軍を差し向けることになります。
支城、片岡城陥落
久秀の討伐を決めた信長は、筒井順慶、明智光秀、細川藤孝に5000の軍を与え、信貴山城攻めの先鋒を命じます。
この軍はまず、信貴山城の支城である片岡城を取り囲みます。
片岡城には1000人ほどの松永軍が籠城していましたが、激戦の末、150人余りの犠牲を出し、松永軍は敗北。片岡城は落城することになりました。
頼みの綱、謙信の進軍が止まる
片岡城の陥落の後、久秀の元へさらなる悲報が飛び込んできます。
上洛に向けて動いていた謙信の進軍が突如止まったのです。
謙信はこの先月、「手取川の戦い」で柴田勝家率いる織田軍を撃破したばかり。
この進軍の停止に至った理由は、諸説ありますが
- 豪雪による凍死者を抑えるため
- 関東から北条氏政が攻めてきそうだったため
の2つだと言われています。
謙信が進軍を止めたことにより

と判断した信長が、織田信忠(嫡男)を中心とする対上杉用の軍勢に、信貴山城を攻めるよう命じます。その兵数は脅威の35000。
これによって久秀は、先鋒軍5000と本軍35000の合計40000を相手に苦戦を強いられることになります。
信貴山城の戦い
久秀の善戦
このように信貴山城の戦いは、織田軍40000vs松永軍8000という松永軍の圧倒的不利で始まりました。
しかし久秀は意外にも奮戦し、松永軍200人が織田軍に数百人に損害を与え、緒戦では勝利します。
ですがあくまで緒戦で勝ったのみ、松永軍不利の状況は変わっていません。

と危機感を覚えた久秀は、本願寺の力を借りてこの状況を一変させようと試みます。
本願寺からの援軍
兵力差を埋めようとした久秀は、森好久という武将を使者として


と顕如から200人の鉄砲部隊を借りることに成功、しかも顕如が

とさらに援軍を送ることを約束したため、久秀は大喜び。
この援軍により、松永軍はさらなる奮戦を見せる…はずだったのですが、この援軍が仇となって久秀はこの戦いに敗れることになります。
森好久の裏切り
使者だった森好久という人物、実はそもそも筒井家に仕えていた者でした。
しかもただの家臣ではなく、先祖代々筒井家に仕えてきた譜代の家臣。
そのため現在は松永家に仕えているものの、筒井家のことが忘れられなかったか

と本願寺からの援軍を引き連れて、密かに順慶の元へ参上したのです。
そして好久が信貴山城の内部情報を漏らすと、順慶は褒美に金を与えて

と命じました。
松永親子の自害
その後、信忠を中心として信貴山城に総攻撃をかけます。
松永軍はよく抵抗し、筒井隊を門から押し返すなど善戦しました。
しかし、そこで好久の鉄砲隊が信貴山城の内部で暴れ回ります。
これにより、信貴山城では火事が起こるなど大混乱。
松永軍を統制出来なくなった久秀は、抵抗を諦め自害。
子の久通も同様に自害し、信貴山城の戦いは織田軍の勝利で終わりました。
因みにこの時、名器「平蜘蛛」を信長が欲しがっていたことを知っていた久秀は

と自害する前に破壊したそう。
その後
この信貴山城の戦いにより、松永家は滅亡。
義継が死に、三好三人衆も壊滅していたため、松永家の滅亡により三好一族は完全に衰退することになりました。
一方の織田家は、手取川の戦いで失った勢いを回復。
抵抗を続ける本願寺や、背後に潜む毛利家との戦いが本格化することになりました。
【参考】