戦の図鑑

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駿河侵攻とは?今川家滅亡。三国同盟の崩壊をわかりやすく解説!【図解】

 「駿河侵攻」は、当主を殺され勢いの衰えた今川家が、隣国の徳川家や同盟相手の武田家に侵攻された戦い。

 

この戦いで今川家=武田家=北条家からなる三国同盟は破綻

 

最終的に今川家当主の今川氏真が北条家に逃亡し、戦国大名としての今川家は滅ぶことになりました。

駿河侵攻まで

過去にも対立を繰り返す

駿河侵攻の約100年前、今川家家中では大きな混乱がありました。

しかし後継者の今川氏親北条早雲の力を借り、この混乱を鎮め当主となります。

この一件から、今川家と北条家は仲良くなっていき、この時の今川家は北条家と同盟関係にありました。

その一方、武田家とはバチバチの敵対状態。

後に一度同盟が結ばれたものの、氏親から氏輝が当主となると、両者は再び争いを始めるなど犬猿の仲でありました。

武田家との同盟と北条家との争い

しかし、情勢の変化が起こります。

再び今川家で後継者をめぐって内部争いが起こったのです。

花倉の乱」の勃発でした。

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 この乱では北条家の支援した今川義元が、兄の玄広恵探を破り当主となります。

新たに当主となった義元は、先代の氏輝の方針から一転

今川義元
武田家とはこれから仲良くしていこう
 

と武田家との接近を図ります。

そして義元は、武田家当主の武田信玄の正室を紹介したり、義元自ら信玄の妹を正室に迎えるなどし、武田家との同盟を締結しました。

しかし、この「武田家と仲良くする」という義元の行動は、北条家を怒らせました。

というのも、北条家は武田家とは敵対状態にあり、2年前まで「山中の戦い」で今川家と共に戦い、信玄の叔父を討ち取るほどに殺り合っていたから。

そして

北条氏綱
裏切った今川家を倒そう
 

と怒った氏綱は、今川領へと侵攻。

氏綱は今川家から河東を奪い取り、今川=北条間の同盟は破棄されてしまいました(第一次河東一乱)。

甲相駿三国同盟の成立

しかしその後、武田家と北条家で和睦がなされると、今川家と北条家の間でも仲直りのムードが漂います。

そこで成立したのが「甲相駿三国同盟」という同盟でした。

この同盟により、今川家=武田家=北条家は互いの娘を正室に迎え、三家の間にようやく平和が訪れました。

桶狭間の戦いで今川家大混乱

しかしこの三国同盟は、思わぬ形で崩壊の兆しを見せます。

桶狭間の戦い」で、義元が織田信長に討たれたのです。

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当主の突然の戦死により、今川家は大パニック。

氏真が新たに当主となるも、松平家が今川家から独立したり、今川領で反乱が起こるなど今川家はピンチに。

そしてこの様子を見ていた信玄が

武田信玄
今川家が不安定なうちに、同盟を破って今川領へ攻め込むのもアリだ
 

 と今川家への侵攻を企み始めていました。

義信事件で氏真妹を送り返す

そんな矢先、武田家では「義信事件」が起こります。

この事件は信玄の嫡男である義信が、家臣と

武田義信
父の信玄を暗殺しよう
 

 との企みがバレた事件のこと。

この結果、義信は後継者の立場から外され、最終的には自害することになりました。

そして問題なのが、義信の正室が氏真の妹(嶺松院)であること。

この事件により嶺松院は今川家へと送り返され、武田家と今川家との関係は最悪に

これらの情勢から、信玄は今川家への侵攻を決意することになります。

駿河侵攻

徳川=武田間の密約

今川家への侵攻を決めた信玄は初め、北条家に

武田信玄
共に今川家を攻め、挟み撃ちしよう
 

 と提案します。

しかし、北条氏康の正室が氏真の叔母(瑞渓院)だったため

今川家を裏切ることは出来ない
 
北条氏康

と氏康はこの提案を断ります。

そのため信玄は、今川家から独立した徳川家康に

武田信玄
挟み撃ちして、東部は徳川家が、西部は武田家が占領しよう
 
分かりました
 
徳川家康

との提案を持ち掛け、一時的な同盟を結ぶことになりました。

今川家、戦わずして敗北

そして準備の整った信玄は、ついに12000の軍勢で今川領へ侵攻します。

これを知った氏真は、家臣の庵原忠胤に軍勢を出撃させます。その数15000。

兵数的には今川有利と見られる条件で、戦いが始まろうとしていました。

しかしいざ戦おうと武田軍が進軍すると、なんと今川家は激突を避けて退却していきます。

実はこの時、信玄は「今川家臣は氏真に対して不安に思っている」ということを知り

武田信玄
武田家に寝返らないか
 
是非、そうしましょう
 
今川家家臣

 と、事前に21名もの今川家家臣を寝返らせることに成功していたのです。

その結果、今川家は戦わずして敗れ、氏真は瞬く間に駿府城を奪われてしまいました(薩埵峠の戦い)。

娘の仕打ちにキレる北条氏康

こうして、武田家の侵攻により駿府城を追われた氏真でしたが、氏真の正室(早川殿)も同様に、武田軍から逃げていました。

しかも、早川殿は輿を用意できずに、徒歩で逃げるはめに。

このことを知った父の北条氏康

北条氏康
娘をなんて酷い目に合わせるのだ
 

 と信玄の早川殿に対する仕打ちに激怒。

武田家との同盟を破り、今川家側につくことを決めました。

遠江国を切り取る徳川家康

一方の家康も軍を興し、今川家の敗北に乗じて

  • 井伊谷城
  • 白須賀城
  • 曳間城(後の浜松城)

を落とすなど、快進撃を見せます。

そして家康は、氏真の逃げた掛川城にまで攻め込むことになりました。

北条家の救援と手切れで信玄撤退

このように、西の徳川家では今川家は劣勢だったものの、東では戦局が変わりつつありました。

北条家が今川家を助けるため、北条綱成を中心とする援軍を送ったのです。

これにより、武田軍は大宮城を攻めたものの失敗。

その後、武田軍は北条軍との合戦を試みますが、はっきりとした勝敗はつきませんでした。

そんな事をしている間に、武田軍では兵糧不足が深刻となります。

しかも、家康に手切れされるなどの事情もあり、武田軍は駿府からの撤退を強いられることになりました。

今川家滅亡

その頃、掛川城を包囲していた家康は、信玄が駿府城を捨てたことを知ると、すぐさま駿府城を占領します。

そしてその1ヶ月後

徳川家康
氏真の命は保証するから開城してくれ
 

 という説得を受けると、掛川城城主の朝比奈泰朝は開城を決断。

氏真はその後伊豆へと落ち延び、戦国大名としての今川家は滅亡を迎えました。

三度目の侵攻で駿府を奪う

この氏真の降伏により、駿河侵攻の一連の戦いは終わったように見えました。

しかし、信玄は

武田信玄
今川家との戦いに勝利したのは俺なのに、家康に良いとこ取りされてしまった
 

 と武田家にとって理不尽な結果に不満を持ちます。

そのため、武田家はその後2度にわたり駿河国へ侵攻を開始。

1度目の侵攻(第二次駿河侵攻)では、今川家を破って大宮城を攻め落とします。

そして2度目の侵攻では、陽動部隊を駆使し

  • 横山城
  • 蒲原城
  • 駿府城
  • 花沢城
  • 徳一色城(後の田中城)

を落とし、念願の駿府占領に成功しました。

その後

この駿河侵攻により、三国同盟は完全に破綻。

そのため武田家は、この後周囲を敵に囲まれることになりました。

【参考】

駿河侵攻 - Wikipedia

今川義元 - Wikipedia

掛川城 - Wikipedia