戦の図鑑

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大寧寺の変とは?陶晴賢による大内家乗っ取りをわかりやすく解説!【図解】

大寧寺の変

 「大寧寺の変」は、西国No.1の勢力を誇っていたこともある大内義隆が、重臣の陶晴賢(隆房)に殺されてしまった事件。

この事件によって晴賢は下克上を果たし、大内家は事実上滅亡することになります。

大寧寺の変まで

大敗北でやる気ゼロ

大内義隆率いる大内家は、この時最盛期を迎えていました。

その勢力範囲というのは

  • 周防国
  • 長門国
  • 安芸国
  • 石見国
  • 豊前国
  • 筑前国

という大規模なもの。

周防国と長門国と安芸国と石見国と豊前国と筑前国を支配する大内家

しかし「第一次月山富田城の戦い」でライバルの尼子家に大敗北。

重臣や後継者の大内晴持を失ってしまいます。

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可愛がっていた甥を失くした義隆はこれ以降やる気を無くし、政治をしなくなっていきました。

重臣同士の内部争い

しかも義隆はこの時、相良武任などの文官のみを大事にしたので、武官の陶晴賢(この時は隆房)から

陶晴賢
相良武任は敵だ
 

と敵対視されます。

これを知った武任は

相良武任
陶晴賢に殺されるかもしれない
 

 と、剃髪して実家の方へ逃げていきました。

その後、武任は義隆に必要とされたか呼び戻され、政界に復帰します。

しかしその2年後、今度は「晴賢が武任を暗殺する」や、「晴賢が義隆に謀反を起こす」という噂が流れます。

この噂によって怯えた武任は再び逃げ出すことになり、立場の悪くなった晴賢も居城の若山城に立てこもってしまいました。

そして、逃げた武任を見つけた義隆は、懲りずにもう一度大内家に連れ戻します。

これによって、晴賢は

陶晴賢
これは、義隆様が居なくならないとダメだな
 

 と考え、義隆を倒すことを決意したのでした。

晴賢と不仲の杉重矩が協力した理由

こうして「大寧寺の変」が起こることになる訳ですが、

実はこの変に、晴賢と仲の悪い杉重矩という人物が晴賢側についています。

これには理由が2つあって、

1つ目は、重矩が義隆に

杉重矩
晴賢は謀反を起こしますよ
 

 と言っても

大丈夫、晴賢がそんなことする訳ない
 
大内義隆

 と全く聞き入れなかったこと。

 2つ目は、武任が義隆に

相良武任
重矩は自分の忠言を義隆様に聞いてもらえなかったから、晴賢と一緒に義隆様に背こうとしている
 

 という内容の告げ口をしたこと。

つまりは「武任が重矩を蹴落とそうとしていた」から、ということです。

大寧寺の変

晴賢、謀反を起こす

こうして謀反を起こした晴賢はまず、大内家の重要な領土である厳島を占領しました。

あらかじめ協力することを決めていた毛利家も、佐東銀山城を占領するなどして協力の姿勢を見せます。

厳島を占領する陶晴賢

そして状況が整った晴賢は、ついに義隆を倒すため本格的に侵攻を始めます。

侵攻を始める陶晴賢

兵が集まらない義隆

一方その頃、晴賢の謀反を知らない義隆は、拠点の大内氏館で酒宴をしていました。

その後、ようやく謀反を知った義隆は、酒宴をしてる場合ではないことを悟ります。

そして守りにくい大内氏館を捨て、守りやすい法泉寺へと移動しました。

法泉寺へ移動する大内義隆

この時、陶軍が5000~10000なのに対して、大内軍は2000~3000。

圧倒的に兵が少ない大内軍は士気が低く、逃げていく兵も後を絶ちませんでした。

逃亡に失敗し自害

そのため、義隆は

大内義隆
逃亡兵が多すぎて戦えないから逃げよう
 

 と、姉婿にあたる吉見正頼のいる石見国へ逃げようとします。

石見国へ逃げようとする大内義隆

しかし、運悪くこの時は暴風雨でなかなか移動が困難な状況にありました。

諦めた義隆は大寧寺へ戻り、重臣の冷泉隆豊と自害。

大寧寺で自害する大内義隆と冷泉隆豊

大寧寺の変は幕を下ろしました。

その後

大寧寺の変の後、晴賢は武任ら残党を倒すのに忙殺されることになります。

そして、義隆の甥である大内義長を新当主に立てた晴賢は、事実上のトップとして権力を振るうことになっていきます。

【参考】

大寧寺の変 - Wikipedia

大内義隆 - Wikipedia

大内氏 - Wikipedia

大内氏館 - Wikipedia