今回は「天文法華の乱」について解説していきます。
この戦いは、当時勢いのあった宗教である日蓮宗が起こした、宗教戦争のこと。
この天文法華の乱によって、京都は大部分が焼け、日蓮宗は6年もの間禁じられることになりました。
天文法華の乱まで
天文法華の乱が始まったきっかけは、日蓮宗の勢力拡大にありました。
勢いの増す日蓮宗、潰しにかかる本願寺
当時、京都では日蓮宗が広く信仰され、勢力を拡大させていました。
日蓮宗が広く信仰されると困るのは、他の宗教。
日蓮宗ばかり信仰されたら、他の宗教は信じられなくなってしまいます。
なので、迷惑がっていた宗教の1つである浄土真宗(本願寺)は
京都に行って暴れ回ってやる
と考えます。
※京都へ侵攻する、というのはあくまでも噂だったそうです。
しかし、これを聞いて日蓮宗も黙ってはいられません。
こうなったら先手をとって攻撃してやる
と言わんばかりに、京都にある本願寺系の寺を次々と燃やしてしまいました。
この過程で、浄土真宗の本拠点、山科本願寺も焼失。宗主の証如も逃げています。
こうして、本願寺の脅威を追い出した日蓮宗は以後5年間、京都での勢力をさらに広げていくことになりました。
日蓮宗が延暦寺を論破
京都での影響力が増した日蓮宗は、今度は別の宗教にもケンカ?を売ります。
延暦寺(天台宗)に宗教問答を呼びかけたのです。
宗教問答というのは、違う宗教同士で行う議論のようなもの。
この問答は、結果をいうと日蓮宗の勝利。
しかも、延暦寺の僧侶は日蓮宗の一般信徒に負けてしまったので、延暦寺は余計にメンツを潰されてしまいました。
裁判するも失敗する延暦寺
恥ずかしい思いをした延暦寺は
どうにかして巻き返さなければ
と考えます。
そのため延暦寺は
日蓮宗が「法華宗」と名乗って来るのをやめさせてもらえませんか
と幕府に訴え出ます。
傍から見ても、あきらかに「先の問答で傷づいたプライドが許さないから訴えた」ようにしか見えませんが、延暦寺側にも言い分はありました。
なぜなら、「法華宗」というのは他の宗教も名乗っているものだったから。
しかし、この裁判に延暦寺は敗北。延暦寺は強硬手段に出ることを決意しました。
日蓮宗に対して強硬手段に
この敗訴によって、プライドの傷つきに拍車がかかった延暦寺は、なぜか
延暦寺に金を納めるように
と日蓮宗に要求します。
日蓮宗は
問答と裁判で2度も日蓮宗に負けた延暦寺に、お金なんか支払いたくない
のでもちろん拒否。
両者の中は完全に決裂してしまいました。
天文法華の乱
ここからは天文法華の乱の解説に入ります。
六角家の力を借り攻め込む延暦寺
武力を使って日蓮宗を倒すことを決めた延暦寺は、天皇や幕府に「日蓮宗討伐をしてもいいですよ」という許しを貰うことに成功します。
その後、大名からライバルである他宗教にまで援軍を依頼。
六角家の援軍を貰うことにも成功しました。
こうして60000の軍勢を興した延暦寺と六角家は、京都に攻め込むことになります。
延暦寺の逆転勝利
攻め込まれることになった日蓮宗も、大人しく攻め込まれるワケではありません。
京都のそこら中に溝を掘り、簡易的な要塞を作っていたのです。
そのおかげか、始めは20000の軍勢を率いる日蓮宗の有利が続きます。
しかし、だんだんと延暦寺&六角家の方が優勢となり、ついに日蓮宗が敗北。
京都から追い出されてしまいました。
大きな被害
ちなみにこの戦の被害は尋常ではなく、日蓮宗の宗徒の3000~10000人が殺されてしまっています。
また、京都にあった日蓮宗の重要な寺21ヶ所が全て炎上。
京都は
- 下京(全焼)
- 上京(3分の1焼失)
という大被害となってしまいました。
その後
その後、戦いに負けてしまった日蓮宗は京都での信仰を禁じられます。
ですがその6年後、延暦寺側として戦いに参加した六角定頼が
流石にかわいそうだから、京都で日蓮宗を信仰させてやってください
と仲介することで、延暦寺と日蓮宗は仲直り。
日蓮宗は21ヶ所のうち15ヶ所の寺が復興し、布教が再開しました。
まとめ
- 延暦寺が日蓮宗に問答と裁判で負け、天文法華の乱が起こった
- 始めは日蓮宗が有利も、最後は延暦寺が勝利
- 日蓮宗は京都にある寺を燃やされたが、後に仲直りし復興
最後まで読んでいただきありがとうございました。