今回は「山城国一揆」について解説していきます。
この一揆は山城国の国人と農民が、畠山家に向けて起こした一揆です。
この一揆によって名門の畠山家は、山城国から追い出されてしまいます。
そして山城国は8年の間、国人や農民が自治をする「惣国」となっていきました。
山城国一揆まで
まずは山城国一揆が起こったきっかけから解説していきます。
畠山家の後継争いで大迷惑
山城国一揆は、名門の畠山家の内紛がきっかけとなって起こります。
当時、畠山家は畠山義就と、畠山政長が後継者を決めるため争っていました。
両者の争いは、各地で行われていたのですが、山城国の南山城(山城国の南)にまでにも及ぶことになります。
結果から言うと、両者は2ヶ月間も南山城での争いをしていくのですが、これによって迷惑するのがこの地に住む国人や農民。
戦に連れ出されたりと、さんざんに巻き込まれて大迷惑になった国人と農民は、次第に
義就と政長を追い出したらここら辺が平和になるのでは?
と考えるようになります。
山城国一揆
そしてここから耐えられなくなった国人と農民が、山城国一揆を起こしていきます。
畠山家への不満が爆発
戦いに巻き込まれるのに耐えられなくなった国人と農民は、義就と政長を追い出すか決めるために集会を開きました。
この集会では、15才~60才という幅広い年齢層の国人が集まったというのだから、よっぽど迷惑だったということがわかると思います。
そしてこの集会によって「国中掟法」という、要は
南山城の支配を諦め、さっさと出ていきなさい
これからは私たちが治めていきます
という方針でいくことで一致し、畠山家を追い出すことに成功しました。
そしてこの件以降は「三十六人衆」と呼ばれる主だった国人たちが、南山城を治めていくことになります。
幕府も見て見ぬふり
もちろんこの事件を、お隣の京都にいる幕府も知らないはずがありません。
いつもの幕府だったら、国人が守護大名に逆らったことに怒り討伐する……となりそうですが、なんと静観の立場を貫いたのです。
なぜかというと、幕府No.2の「副将軍」細川政元が
山城国は幕府が直接支配したいのに、畠山家を助けたら山城国は畠山家が支配することになってしまう
と考えたので幕府は畠山家には加担せず、いわゆる見て見ぬふりをすることになりました。
また、山城国を支配した三十六人衆の中に細川家に従っていた者がいたということも、政元が手出し出来なかった理由の1つだったのでしょう。
鎮めるため伊勢貞陸を派遣
こうして畠山家が南山城から追い出されると、やがて幕府は南山城を直接支配したいと考えていくようになります。
そして幕府は、執事(財政や領地に関係する役職)の伊勢貞陸という人物を山城国の守護に任命しました。
要は貞陸を山城国の支配者にして、幕府は貞陸に山城国一揆を鎮めさせたのです。
その貞陸は任命されたはいいものの、あまり山城国一揆を鎮める気は無かったので
- 裁判をする権利
- 年貢の一部を徴収していい権利
を三十六人衆に認めるなどして、緩めの支配をしていきました。
仲間割れした隙を着く
このように、あまり守護らしく立ち回っていなかった貞陸でしたが、だんだん
いずれは完全に山城国を支配したい
と考えるようになります。
そこで貞陸は、古市澄胤という人物を守護代(守護の下に置かれた役職)に就かせ、山城国一揆を鎮めさせようとしました。
そして澄胤が守護代になったことを知った三十六人衆は
- 貞陸や澄胤に従う派
- 貞陸や澄胤に抗う派
に分裂してしまいます。
そして従う派は、
これ以上自治をする必要は無い
と考えて一揆をやめ、貞陸の下に組み込まれていきました。
しかし、問題は抗う派。
貞陸と澄胤に抗う!と決めた国人は、稲八妻城(稲屋妻城)に籠り細川家の力を借りようとしたのです。
ですが当の政元は様々な事情により、貞陸と敵対がしづらい立場にあったので、澄胤に
攻撃をやめて稲屋八城から兵を退かせるように
と言うくらいしかできずにいました。
しかし澄胤は、この言葉を無視して攻撃を続けたので、抗う派は敗北、山城国一揆は完全に終結しました。
その後
この功績によって貞陸は山城国を、引き続き治めていきました。
しかし、次の年に畠山家の家臣が勝手に南山城に侵入し、貞陸を困り果てさせます。
そこに細川家の家臣の赤沢朝経がやって来て、畠山家の家臣を追い出すことに成功したので、次第に細川家が山城国での権力を強めていきました。
まとめ
- 畠山家の内紛に困った国人と農民が山城国一揆を起こした
- 畠山義就と畠山政長を追い出すも、幕府から伊勢貞陸が派遣され一揆を鎮められる
- その後の山城国は細川家が影響力を強めていく
最後まで読んでいただきありがとうございました。
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