「石山合戦」は、勢力を著しく拡大していた織田信長に対し、本願寺顕如が起こした一揆。
この一揆により「信長包囲網」はさらに強固なものとなり、信長は11年間もこの一揆に苦しめられることとなりました。
石山合戦まで
信長と義昭の決別
時は1568年、織田信長は上洛戦を開始、足利義昭を将軍にすることに成功します。
しかし、その翌年

と考える信長と

と考える義昭の間で食い違いが発生すると、信長は「殿中御掟」という掟を義昭に提出。
義昭は

と不満を抱き、以降両者の関係は悪くなっていきました。
そんな中、織田軍が畿内から軍を退いた1570年6月、畿内から追い出されていた三好三人衆が

と信長に対して挙兵します。
これを知った信長は岐阜城から出陣、三人衆の気づいた野田城・福島城に向かって進軍しました。「野田城・福島城の戦い」の開幕です。
石山合戦
緒戦は織田軍勝利
織田軍は野田城・福島城から5km離れた天王寺を中心に、浦江城や畠中城を落とし戦いを有利に進めます。
また織田軍に20000の援軍が到着したことで三人衆は勝算をなくし、信長に和平を申し入れるほどに不利となります。
しかしそこで、本願寺顕如率いる本願寺教徒が突如、織田軍に襲いかかりました。
実はこの時、顕如は

ということを信長に言われたため、織田軍を攻撃したと言われています。
しかし、結局の所は織田軍優勢に終わり、顕如は石山本願寺に退却することで石山合戦の前哨戦である「淀川堤の戦い」は終わったのでした。
長島一向一揆の発生
このようにして顕如は反織田の色を鮮明すると、各地の本願寺教徒に

と呼びかけます。
この呼びかけにより、本願寺勢力の大きかった伊勢国長島で「長島一向一揆」が発生。
この一揆で一揆衆は、織田軍の侵攻を2度退け、信長の一族を大勢討ち取ることになります。
1度目の和議
しかしそれに比べて、本拠地の石山本願寺では平穏な時が流れていました。
というのも、先ほどの戦いの後、顕如の義兄弟の武田信玄の仲介により両者は和睦。
この頃は大坂での戦闘は行われていなかったのです。
熾烈を極める情報戦
ですが顕如はその和睦期間中、物理的な戦いではない「外交戦」を展開していました。
武田信玄や毛利輝元といった「信長に不満を抱く大名」と同盟を結び

と企んでいたのです。
そして信長もこれに対抗し、信玄のライバルの上杉謙信に近づくなど戦いの準備を整えていました。
越前一向一揆の発生
このように顕如と情報戦を繰り広げていた信長は、同時進行で朝倉家を滅ぼします。
そして朝倉家の治めていた越前国では、新たに前波吉継という武将に統治を任せましたが、これが失敗。
冨田長繁という武将が吉継などに不満を抱き、本願寺教徒を巻き込んで一揆を起こしたのです(越前一向一揆)。
この一揆により越前国では、吉継などの上層部が殺され、支配体制が崩壊。
たちまち越前国は、長繁などの国人や一揆衆の治める国へと様変わりしたのです。
これにより、信長は越前国の支配権を奪われることに。
そして一揆の発生を知った顕如が

と石山本願寺から七里頼周を送り、最終的には七里頼照という僧が指導者となりました。
この顕如の行動により、信長は

と激怒します。
これにより両者の関係は最悪なものとなり、信長と顕如は2度目の戦いを起こすことになります。
2つの一揆の鎮圧
そして1573年4月、信長包囲網の大黒柱である武田信玄の病死により、包囲網側に暗雲がたちこめます。
まず長島一向一揆では、信長が織田家臣を総結集させ、数万(100000以上とも)の大軍で一揆衆を陸と海から攻撃。
100000以上の一揆衆を閉じ込め兵糧攻めし、一揆衆は30000以上の餓死者を出した後、長島一向一揆は鎮圧されたのです。
また、越前国では

と頼照の政治に不満を持つ武士が出始めます。
これにより、越前国で一向一揆の中の一揆が発生しました。
これを知った信長は、この越前国の混乱の隙をつき侵攻、たちまち信長が越前国を奪い返したのです。
2度目の和議
顕如はこの惨状を知ると、

と弱気になります。
そして顕如は信長に和議を申し出、信長もいまだに包囲網によって苦しめられ

と考えていただけに、和議は成立しました。
そんな中、中国地方では覇権を握る毛利輝元が織田側の三村家を滅ぼすと、毛利家と織田家の関係は破綻寸前となります。
そして翌年、信長から追放されていた義昭が、輝元を頼って鞆の浦に落ち延び

と頼むと輝元は

と信長と戦う覚悟を決め、以降包囲網には毛利家も参加していくことになります。
天王寺の戦い
この毛利家の参戦を知った顕如は

と3度目の挙兵をします。
それを知った信長は、塙直政を大将として石山本願寺を包囲しました。
しかし海岸からの支援を受けていた本願寺軍は、逆に織田軍をカウンター攻撃。
織田軍は敵に囲まれ、雑賀衆の射撃により織田軍は直政が戦死するなどの大被害を受けます。
勢いづいた本願寺軍はさらに織田軍を追撃、今度は本願寺軍が織田軍の天王寺砦を包囲しました。
天王寺砦では本願寺軍が猛攻を仕掛けており、籠っていた明智光秀などは

と信長に報せを送るほどに追い詰められていました。
この危機を知った信長は急いで京都を出ると、兵を集めようとしますが、何しろすぐには兵など集まりません。
そのため、4日後には本願寺軍の5分の1である3000人しか兵が集まりませんでした。
しかし、信長は

と本願寺軍に向かって決死の突撃をします。
本願寺軍の包囲網を破った信長は、天王寺砦の軍勢と合流。
そのまま本願寺軍へ突撃すると

と油断していた本願寺軍は意表を突かれ、本願寺軍はたちまち2700人の犠牲を出して敗走していきました。
第一次木津川口の戦い
この「天王寺の戦い」の後、信長は石山本願寺の周囲に城を築き包囲、本願寺が支援を受けられないようにしました。
苦しい立場となった顕如は、そこで毛利家に助けを求めます。
この求めに応じた輝元は

と、700~800(兵糧船を含む)の船を織田軍の300艘にぶつけます。
そこで起こった「第一次木津川口の戦い」で毛利水軍は、焙烙火矢(現代の手榴弾)を使い、織田軍を撃破。大量の兵糧を本願寺に運び込んだのでした。
紀州征伐
先ほどの「天王寺の戦い
」などで活躍を見せていた雑賀衆はこの時、一部が織田家に寝返るなど分裂が起きていました。
そして

と信長は考え、雑賀衆の本拠地である紀伊国への出兵をします(紀伊征伐)。
100000の大軍で攻め入った織田軍に対し、鈴木孫一率いる雑賀衆2000はゲリラ戦を展開。
織田軍を1度破ることには成功したものの、両軍が膠着状態となると

と孫一は抵抗を諦め、信長に降伏しました。
第二次木津川口の戦い
前回の第一次木津川口の戦いで敗北を喫した信長は


と鉄甲船の建造を、九鬼水軍を操る九鬼嘉隆に命じました。
鉄甲船の存在により、勝算が見えた信長は毛利水軍との再戦を決意。
そこで起こった「第二次木津川口の戦い」では、毛利水軍は焙烙火矢を再び織田軍に投げつけますが、鉄甲船では無傷。
むしろ鉄甲船の大砲により毛利水軍は返り討ちに逢い、この戦いで織田軍は圧倒的勝利を飾りました。
この戦いにより、石山本願寺は再び織田軍に包囲され、危機的状況に陥ることになりました。
荒木村重の反乱と終戦
その後、有岡城の荒木村重が信長を裏切ります。
この反乱により織田軍では一時混乱を見せますが、その一年後に有岡城は陥落。
「有岡城の戦い」が終戦したことにより、兵糧が不足し始めていた本願寺は希望を失い、顕如はついに信長との和議を決めます。
この和議により、顕如は石山本願寺を出ていかざるを得なくなり、顕如は石山本願寺を退去していきました。
しかし、顕如の長男の教如は

と引き続き信長への抵抗を続けました。
しかしその3ヵ月後、情勢の悪化などから教如も抵抗を諦め退去、石山本願寺は信長の物となりました。
ですが、石山本願寺が信長に引き渡された際、石山本願寺が炎上。
三日三晩燃えた後、石山本願寺は完全に焼失しました。
その後
この後、教如が顕如の意に反する行動を行ったため、教如は顕如に絶縁されます。
両者は後に和解をしますが、顕如の死後に教如と弟の准如との間で内乱が発生。
本願寺は2つの宗派に分裂することになりました。
【参考】
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