「三河一向一揆」は、三河国を治めていた若き日の徳川家康に対し、本願寺門徒が起こした一揆。
この一揆には徳川家臣も多く参加し、家康の「三大危機」と言われるほどのピンチに陥ります。
しかし家康はこの一揆の鎮圧に成功、以前よりも三河国の結束力が高まる結果となりました。
三河一向一揆まで
桶狭間の戦いで独立
まず始めに、三河一向一揆以前の徳川家康について見ていきましょう。
家康が新たに当主になった頃の松平家は、今川家の家臣という立場でした。
しかし「桶狭間の戦い」で今川家当主の今川義元が戦死すると、家康は

と、今川家からの独立に成功します。
また、今川家の敵である尾張の織田家とも同盟を組み(清洲同盟)、積極的な勢力拡大を目指すようになりました。
因みに家康はこの時、苗字を松平から徳川に変えています。
諸説ある一揆の原因
そんな矢先、家康に試練が訪れます。
西三河の本願寺門徒が、徳川家臣を巻き込んで一揆を起こしたのです。
これが後にいう「三河一向一揆」。
この一揆が起きた理由には
- 家臣の酒井正親が本證寺に入った者を勝手に捕まえた
- 家臣の菅沼定顕に上宮寺の兵糧を盗ませた
といった様々な説があります。
因みに当時
- 本證寺
- 上宮寺
- 勝鬘寺
の3つの寺は「三河三ヵ寺」と呼ばれ、三河国の本願寺の拠点となっていました。
そしてこの寺には守護使不入という、簡単に言えば「守護(この場合は家康)が勝手に寺に入ってはいけない」という権利が与えられていました。
そのため、家康が守護使不入を破ったから一揆が起きた、という点はどの説も同じなんです。
三河一向一揆
家臣の多くが家康を裏切る
このようにして、家康に対し

と不満を持った本證寺第十代の空誓という僧侶が、上宮寺と勝鬘寺に呼びかけ、一揆が発生しました。
この一揆は、ただの反乱ではなく
- 三河国における家康の敵対勢力(吉良家など)
- 今川家の残党
なども参加し、さらには
- 本多正信
- 本多正重
- 渡辺守綱
- 蜂屋貞次
- 夏目吉信
- 内藤清長
- 加藤教明
- 酒井忠尚
- 石川康正
といった徳川家臣の多くが参加した大規模なもの。
そのため、一時は本拠地の岡崎城まで攻め込まれるなど、家康は大ピンチに陥りました。
馬頭原合戦で徳川勝利へ
しかしそれから家康は巻き返し、馬頭原合戦での勝利により、戦局は家康有利に傾きます。
そして一揆発生から約半年後、ついに和議がなされ一揆が鎮圧されました。
因みに、一揆に参加した武士の中には

と、家康に敵対することに苦しむ者も多くいた事も、鎮圧の理由の1つだとされています。
その後
その後、家康は敵対した家臣の多くを許し、家臣との結束力を高める結果となりました。
しかし本願寺に対しては、20年近く三河国を本願寺を禁止にするなど、厳しく対処をすることになります。
またこの一揆によって家康は、三河国での敵対勢力を排除することに成功、三河国の統一に繋がっていくこととなりました。
【参考】
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