「三増峠の戦い」は、同盟相手の今川家を裏切った武田信玄と、今川家の同盟相手の北条家北条氏照との間で行われた戦。
緒戦では北条軍が勝利しますが、武田家家臣の山県昌景の奇襲により形勢逆転。
信玄は左翼軍大将の浅利信種を失いますが、結果は武田軍の勝利に終わりました。
三増峠の戦いまで
駿河侵攻で武田vs北条に
時は1568年、武田信玄は以前から隣国の今川義元と北条氏康とで組んでいた「甲相駿三国同盟」を破り、今川家へ攻め込みます(駿河侵攻)。
そして信玄の裏切りに怒ったのが、もう1人の同盟相手である氏康。
信玄の同盟破棄を知った氏康は、信玄のライバル上杉謙信と同盟(越相同盟)を組み、武田家と敵になる道を選びました。
小田原に北条軍を誘い込む
越相同盟から約4ヶ月が経った頃、信玄が駿河へ3度目の侵攻を始めます。
信玄はこれまで、北条軍の妨害や徳川家の横取りにより、今川領へまともに侵攻できていなかったのです。
しかし、信玄が侵攻することは北条家も予測済み。
事前に駿河方面に兵を多く防衛に置いていました。
そのため、信玄は

とあえて北条家の本拠地、小田原に攻めることを思いつきます。
これにより、氏康は小田原城に籠らざるを得なくなり、駿河の防衛を薄くすることに成功。
「堅城」小田原城を落とすことが不可能だと分かっていた信玄は

と小田原城に向かって挑発をしかけます。
しかし氏康はこの挑発に乗らなかったため、信玄は城の包囲を解除。
一旦、本国の甲斐へ帰国しようとしました。
そして、これを待っていたのが北条家。
氏康の子の北条氏照と北条氏邦は、信玄の撤退を知ると

と、武田軍の帰国するルートに軍を展開。
小田原城から進軍していた氏康との挟み撃ちを計画します。
三増峠の戦い
氏照の奇襲
そして10月6日、武田軍と氏照・氏邦軍は衝突します。
氏康率いる本軍はまだ武田軍に追いついていないものの、氏照と氏邦は

と奇襲を決行。
信玄はこの奇襲を予知していたため
- 北条軍を受け止める隊
- 山から奇襲を仕掛ける隊
- 津久井城(北条領)を封じ込める隊
の3つに軍を分け、戦闘に備えます。
しかし、北条軍の猛攻は信玄の想像以上でした。
武田軍の「北条軍を受け止める隊」では犠牲者が続出、北条綱成の鉄砲隊により、左翼大将の浅利信種が討死するという有様でした。
昌景の奇襲で逆転
しかしここで、先ほどの「山から奇襲を仕掛ける隊」を率いる山県昌景が北条軍に奇襲を仕掛けます。
この奇襲は成功し、北条軍は一気に不利な状況に。
しかも北条軍の援軍として待機していた、津久井城の兵が「津久井城(北条領)を封じ込める隊」に邪魔をされ、身動きが取れない状態。
そして、この時の武田軍左翼は戦死した信種に代わり、軍監の曽根昌世が指揮をしたため、左翼は勢いを取り戻します。
これらの戦況により、信玄は勝利を確信。
勝鬨をあげた後、甲斐国へと帰国していきました。
その後
三増峠の戦いにより北条軍を撃破した信玄はその後、本格的に駿河へ侵攻。
各城に籠る武将を撃破し、信玄は駿河国を支配下に置くことに成功しました。
しかし重臣の浅利信種を失うなどしたため、武田家は大きくダメージを受けることになります。
【参考】
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