「多々良浜の戦い」は、九州地方の大部分を支配していた全盛期の大友宗麟と、中国地方の覇者となっていた毛利元就が、北九州を巡って争った戦。
毛利軍はこの戦い以前に九州への上陸を成功させるも、多々良浜の戦いでは敗北。
大友軍に押し戻される形となり、元就は九州への侵攻を諦めることになりました。
多々良浜の戦いまで
門司城の戦いで5度戦う
時は1562年、北九州の大部分を支配する大友宗麟は、

と考えた「中国の覇者」毛利元就の侵攻に苦しんでいました。
この大友vs毛利の九州を巡る一連の戦いは「門司城の戦い」と呼ばれ、計5回行われていたものでした。
そして5度の戦いを終えたこの時、将軍の足利義輝の仲介により

と和睦。毛利家の九州における拠点は門司城のみとなっていました。
秋月種実・高橋鑑種の挙兵
それから両者には平穏な時が流れたものの、その5年後、毛利家の支援を受けた秋月種実が、宗麟に反旗を翻します。
種実が挙兵した理由は、大友家の家臣だった高橋鑑種が毛利家に寝返り

と挙兵を誘われたからだったそう。
休松の戦いで大友軍大敗北
種実の反乱を知った宗麟は、重臣の戸次鑑連(立花道雪)、吉弘鑑理、臼杵鑑速に軍を与え、秋月家討伐に向かわせます。
大友軍は休松城を落とすなど、序盤は順調に攻めていきます。
しかし種実が風雨の強い中、夜襲を決行。
奇襲など予想外だった大友軍は大混乱に陥り、「休松の戦い」と呼ばれるこの戦いは秋月家の大逆転勝利に終わったのでした。
立花鑑載の反乱
この敗北により、大友家中でも混乱が起きます。
その最たる例が立花山城城主、立花鑑載の反乱でした。
宗麟はこの反乱を戸次鑑連と吉弘鎮信(鑑理の子)に鎮めさせ、鑑載は自害。
しかし、大友家中での混乱は収まることはありませんでした。
毛利元就の参戦
そんな中、この様子を虎視眈々と伺っていた元就が

と参戦を決意。
反大友の龍造寺隆信と連携を取りつつ、元就は子の吉川元春、小早川隆景と共に立花山城を攻撃。陥落に成功させました。
多々良浜の戦い
大決戦を望まない両者
この後、毛利軍の侵攻を知った宗麟が兵を率い、大友軍は多々良川で毛利軍を迎え撃つことになります。
しかしこの時、必ずしも両者が戦いを望んでいた訳ではありませんでした。
それは毛利家は

と考えていたし、大友家は

と考えていたから。
しかも、戦場である多々良川周辺は「大友不利・毛利有利」の地形だったため、最終的に6ヶ月の間、両者は大きな戦闘を起こすことはありませんでした。
18度も行われた合戦
とはいえ、両者の間では小規模な戦いがなんと18回も行われていました。
その中で最も大きかった戦いは、序盤の5月18日に行われた戦いで、この戦いでは大友家が僅差で勝利しています。
しかし、この勝利は戦局を大きく動かすものではなく、それからも両者はにらみ合いを続けていました。
大内・尼子再興軍が毛利を脅かす
そんな最中、宗麟が家臣の進言を聞き

と当時滅亡していた大内家の生き残り、大内輝弘に兵を与え「お家再興軍」を興させます(大内輝弘の乱)。
また同じく滅亡していた尼子家の生き残り、尼子勝久も尼子家再興のため同じタイミングで挙兵します(尼子再興軍の雲州侵攻)。
そのため、毛利軍はたちまち背後に2つの敵を抱えることになりました。
毛利軍の撤退と立花山城開城
毛利領で2つの反乱を起こされ、立花山城を守るどころの話ではなくなった元就は、立花山城に囮として乃美宗勝を残し、九州から撤退します。
これにより、毛利軍を追い出した大友軍が勝利となります。
そしてその翌年、立花山城は開城。大友家は立花山城を奪還したのでした。
その後
その後、家臣の反乱に懲りた宗麟は、信頼できる家臣の戸次鑑連と高橋鎮理を重用します。
そして鑑種と鎮理は後に、立花道雪、高橋紹運として活躍していくことになります。
また毛利家は、2年後に元就が病死。
新当主の毛利輝元により、外交方針を大きく変更させることになります。
【参考】
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